巻波 戦艦

第31駆逐隊は第二水雷戦隊に所属してトラック泊地に進出する[12][13]。ガダルカナル島攻防戦にともなう同年10月中旬のヘンダーソン基地艦砲射撃に従事[14][15]。 11月30日[22]、第31駆逐隊はルンガ沖夜戦に参加[23][24]、戦果を挙げるも同夜戦で「高波」を喪失した[25][9][注 1], 1943年(昭和18年)2月1日、「巻波」は外南洋部隊[注 2]増援部隊[注 3]旗艦としてガダルカナル島撤収作戦に参加するが[27]、空襲で損傷する[28][29]。第三水雷戦隊旗艦を駆逐艦「白雪」に引き継ぎ、駆逐艦「文月」に曳航されて避退した[30][31]。 二水戦の「時雨」と「白露」も既にトラック泊地へ帰投しており[352]、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波〈航行不能状態〉)となった[353][354]。, 南東方面部隊(南東方面艦隊)は麾下の外南洋部隊(第八艦隊)連合襲撃部隊を解消し、第二襲撃部隊を「襲撃部隊」と改称した[353]。襲撃部隊の指揮官は第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将が務める[355]。11月20日時点の襲撃部隊は、軽巡「夕張」[356]、駆逐艦(大波、巻波、天霧、文月、皐月[注 24]、水無月、卯月、夕凪、秋風、夕霧)という兵力であったが[353]、護衛任務や修理のためラバウル不在の艦もあった[358][359]。 4月25日、第十四戦隊の軽巡洋艦那珂[166]と駆逐艦3隻(長波、時雨、有明)は[167]、空母雲鷹と冲鷹を護衛してトラックに向かう[168][169]。4月30日、艦隊はトラック泊地に到着した[169]。 第31駆逐隊の夕雲型3隻(長波、巻波、大波)は順次舞鶴を離れた[301][303]。, 1943年(昭和18年)9月15日の修理完成後[32]、「巻波」は舞鶴から上海に移動した(途中から特設巡洋艦清澄丸を護衛、19日着)[304]。 9月6日[55][53]、待機部隊(第三戦隊〈金剛、榛名〉、31駆〈巻波、長波〉)は呉を出撃した[56][57]。 同年5月末、長波の修理完了[2]。 ほかに姉妹艦「長波」が大破・航行不能という損害を出した[347][348]。 11月13日以降、増援部隊(第15駆逐隊〈早潮〔二水戦旗艦、田中司令官座乗〕、親潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉、吹雪型天霧、睦月型望月)は輸送船11隻を護衛し、ガダルカナル島に向かった[19](第三次ソロモン海戦)[137][138]。だがアメリカ軍機の波状攻撃を受け輸送船6隻が沈没[139]、「佐渡丸」が大破して駆逐艦「天霧」と「望月」に護衛されてショートランド泊地へ退避する[21]。「巻波」も陸軍将兵多数を艦内に収容[140]、記録では1020名となっている[21]。, 田中司令官は残存輸送船4隻と駆逐艦9隻を指揮してガ島への進撃を続行した[注 13] 9月29日、第五戦隊の重巡洋艦「羽黒」が修理のため佐世保に戻ることになり[102][103]、「巻波」は同艦をトラック泊地近海まで護衛した[104]。, 10月1日、第31駆逐隊に夕雲型駆逐艦6番艦「高波」(同年8月31日竣工、浦賀船渠)[25]が編入され、同隊は3隻編制(長波、巻波、高波)となる[75][10]。清水司令は司令駆逐艦を「高波」に指定した[11]。, 10月11日、前進部隊(第二艦隊)はトラックを出撃する[105]。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(海軍兵学校41期)[106]が指揮する第二水雷戦隊(軽巡五十鈴〈二水戦旗艦〉[81]、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉[注 9]、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)は、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対し艦砲射撃を実施予定の第三戦隊(金剛、榛名)を護衛する[107][108]。 同日附で、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した[240]が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐(海兵56期)が横須賀鎮守府附[241]から就任した[242]。 8月20日、「巻波」は舞鶴を出撃した[67]。呉に立ち寄り[68]、つづいて横須賀へ移動する[69]。 9月10日、人見(巻波艦長)は不知火・初春艦長兼務を解かれ、巻波艦長のみとなる[36]。 第31駆逐隊はトラック泊地での警戒任務につく[101]。 2月25日、夕雲型駆逐艦8番艦「清波」[260](駆逐艦長有馬時吉中佐。同年1月25日竣工、浦賀船渠)[261]が第31駆逐隊に編入され[233]、31駆は夕雲型定数4隻(第1小隊:大波、清波/第2小隊:巻波、長波)を揃えた[262][263]。 同日附で人見艤装員長は巻波駆逐艦長(初代)となる[64]。「巻波」は警備駆逐艦に指定された[65][66]。 11月13日1530、輸送船団は再びショートランド泊地を出撃した[94]。 夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の5番艦である[4]。艦名は砕波の一種に由来し、海上自衛隊の護衛艦2隻(初代まきなみ、2代まきなみ)に引き継がれた。, 一等駆逐艦巻波(まきなみ)は[5]、日本海軍が舞鶴海軍工廠で1941年(昭和16年)4月から1942年(昭和17年)8月にかけて建造した夕雲型駆逐艦[6]。8月31日、姉妹艦「長波」[7]と共に新編の第31駆逐隊に所属した[8]。10月1日に姉妹艦「高波」[9]が第31駆逐隊に編入されると[10]、司令駆逐艦も「高波」に変更された[11]。 12月27日、「巻波」は進水した[1][51]。同日附で舞鶴鎮守府籍となる[52]。, 1942年(昭和17年)6月30日、日本海軍は駆逐艦「水無月」水雷長[53][54]、軽巡「大井」水雷長[54]、駆逐艦「村雨」艦長[55][56]、駆逐艦「白雲」艦長[56]等を歴任した人見豊治中佐(海軍兵学校50期)[57]を巻波艤装員長に任命する[58]。同日附で巻波艤装員事務所を設置した[59]。, 7月15日、「巻波」は予行運転中に機関故障を起こし、竣工予定を延期した[60]。 8月31日、日本海軍は長波と巻波 により第31駆逐隊を新編する 。 トラック泊地進出後、第31駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共にガダルカナル島の戦いに従事する 。戦艦金剛と榛名のヘンダーソン基地艦砲射撃にも同行した 。 11月22日(途中引返し)と24日午前3時、「巻波」と峯風型駆逐艦「羽風」は輸送船3隻(千早丸、神威丸、寶運丸)を護衛し、ショートランド泊地を出撃する[153][154]。同日19時ニュージョージア島のムンダに到着した[153]。25日午前2時30分出発、夕刻ショートランド泊地に帰投した[153]。米潜水艦襲撃時には、「羽風」と共に応戦している[153]。, 11月30日[155]、外南洋部隊増援部隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官、旗艦「長波」)の指揮下[156]、駆逐艦8隻はドラム缶輸送任務のためショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島へむかう[157]。部隊編成は、警戒隊(長波、高波)、第一輸送隊(黒潮、親潮、陽炎、巻波)、第二輸送隊(江風、涼風)である[158]。 第一次輸送は、妨害を受けることなく成功した[368][369]。, 11月24日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将の指揮下、第31駆逐隊司令香川清登大佐(司令駆逐艦「大波」)ひきいる日本軍駆逐艦部隊5隻は、ふたたびブカ島への第二次輸送作戦を実施する[370]。前回と同様、輸送隊(指揮官第11駆逐隊司令:天霧、夕霧、卯月)、警戒隊(指揮官第31駆逐隊司令:大波、巻波)という編成であった[371][358]。 日本海軍は7月20日附で第四水雷戦隊を解隊し、第四水雷戦隊司令官高間完少将(海軍兵学校41期)[106]を第二水雷戦隊司令官に任命する[291][292]。 輸送船団の苦戦を知った連合艦隊は、前進部隊の重巡妙高と摩耶に飛行場砲撃を命じ、これを二水戦(五十鈴、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)が護衛することになった[75][76]。妙高と摩耶はガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して擱座炎上した3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ[77]、10月15日夜[78]、艦砲射撃を敢行した[7][79]。砲撃は約1時間で終わり[80]、第31駆逐隊も砲撃を行った(発射弾数253発)[79]。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊(近藤信竹中将・海兵35期)および第三艦隊(南雲忠一中将・海兵36期)主力と合流し[81]、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた[82]。10月26日の南太平洋海戦時は、支援部隊・前進部隊(第二艦隊基幹)に所属していた[83]。10月30日にトラックに帰投した[84][85]。, 11月3日、長波を含め支援部隊の一部部隊[注 6]は外南洋部隊(指揮官三川軍一海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入され[86]、トラックを出撃してショートランドに向かう。11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継がれた[87]。ガダルカナル島への鼠輸送に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る[87]。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった[87]。, 11月6日深夜、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)はショートランド泊地を出撃した[88][89]。途中で米軍爆撃機と小型機20数機の空襲を受け、長波と高波が損傷した[90]。長波は戦死者3名と重傷者7名を出し(長波乗組員によれば戦死4名、ほか陸軍部隊に負傷者)[91]、一番砲塔などに被害があった[89]。甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した[90]。, この頃の連合艦隊は大規模輸送船団によるガ島輸送を計画しており、外南洋部隊増援部隊は第三十八師団(司令官佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船を護衛することになった[8]。11月12日1530、増援部隊(指揮官田中頼三少将、二水戦旗艦「早潮」)[注 7][注 8]は輸送船団を護衛してショートランドを出撃した[93]。だが飛行場砲撃隊と米艦隊の間で夜間水上戦闘となり(第三次ソロモン海戦、第一夜戦)、輸送船団はコロンバンガラ島東方で反転、ショートランド泊地に引き返した[94]。 2月25日には姉妹艦清波[160](浦賀船渠建造艦、1月25日竣工)[161]が31駆に加わった[162]。第31駆逐隊は定数4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。, 3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後舞鶴に回航され、3月17日に入港した[12]。舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなう[163]。修理後、4月20日に舞鶴を出発する[164]。横須賀に回航された[165]。 巻波(まきなみ)は[2]、日本海軍の駆逐艦[3]。 1941年(昭和16年)10月25日、三菱重工長崎造船所で建造の秋月型駆逐艦に「照月」、舞鶴海軍工廠の夕雲型駆逐艦に「巻波」の艦名が与えられる[2]。同日附で2隻は秋月型・夕雲型に類別された[49][注 5]。 巻波に改が来たところで綾波改を使えで余計に痛い目見るから悲しいだけ -- [v7e858i5cGU] 2018-12-30 (日) 12:37:46. 輸送船団は、駆逐艦3隻(巻波、山雲、響)、水上機母艦秋津洲(旅団長乗艦)[311]、特設巡洋艦3隻(平安丸、護国丸、清澄丸)であった[312][313]。 捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に所属する[2]。10月23日、パラワン水道で栗田艦隊がアメリカ潜水艦2隻に奇襲された際[29][注 1]、長波と朝霜は損傷した重巡洋艦高雄を護衛して後退した[4][26]。その後、長波は空襲で損傷した重巡妙高の護衛にまわった[30]。, レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦に従事する[31]。11月11日、第三次多号作戦においてレイテ島オルモック湾で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、輸送部隊は朝霜を残して全滅する[32]。長波も撃沈された[4]。, 1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として、藤永田造船所で建造[33]。 10月30日、長波をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した[注 26][268]。, 11月8日朝、長波は多号作戦第四次輸送部隊(指揮官木村昌福第一水雷戦隊司令官・海兵41期、旗艦「霞」)に所属し、マニラを出撃した[269][270]。翌11月9日夕方にレイテ島オルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった[271][272]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25 とP-38 の攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、第十一号海防艦が沈没し、海防艦占守と第十三号海防艦が損傷した[273][274]。木村少将は輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)に護衛部隊(海防艦〈沖縄、占守〉、駆逐艦〈若月、潮、秋霜〉)をつけてマニラへ先発させた[273]。駆逐艦3隻(霞〔木村少将旗艦〕、長波、朝霜)とともに救助作業にあたった[273]。救助作業後、駆逐艦3隻と第13号海防艦および後から来た第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)はマニラへの帰路についた[275][276]。 7月中旬、第31駆逐隊(長波、岸波、沖波、朝霜)は戦艦や重巡洋艦を護衛してリンガ泊地に進出した[28]。 1943年(昭和18年)1月2日午前11時、駆逐艦10隻はショートランド泊地を出撃する[195]。編成は、警戒隊(長波、江風、涼風、巻波、荒潮)、輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)であった[193][196]。 「巻波」の修理は9月15日に完了した[301][302]。   作戦終了後、「巻波」は修理のためラバウルに回航されている[176][177]。, 12月16日、第一次第一回ムンダ輸送のため[176][178]、駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)はニュージョージア島ムンダ輸送を実施した[179][180]。揚陸作業中に夜間空襲を受け「陽炎」が小破した[180][181]。 対空戦闘中、「巻波」の艦右舷に爆弾1発が命中して機関部損傷、他に至近弾による損傷もうけ、航行不能となる[28][249]。36名が戦死[3]。戦傷者多数[250]。 長波は工作艦明石の世話になった[156]。整備中の1月20日、五十鈴は第二水雷戦隊からのぞかれ第十六戦隊へ転籍した[69]。 11月上旬よりガダルカナル島やニュージョージア諸島への輸送作戦[17](鼠輸送)に従事した[18]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では輸送船団を護衛[19]、将兵多数を救助した[20][21]。 3月29日、「巻波」の修理を舞鶴で行う事が決まる[269]。 11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継がれた[130]。ガダルカナル島への鼠輸送に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る[130]。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった[17]。, 11月6日深夜、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の甲増援隊はショートランド泊地を出撃する[131]。甲増援隊の編成は、第15駆逐隊(親潮、早潮、陽炎)、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)、第31駆逐隊(高波、巻波、長波)、第10駆逐隊(夕雲、風雲)であった[132]。 機関部の損傷は深刻で、人見(巻波艦長)は舞鶴海軍工廠で修理中の「不知火」用機関を流用するよう提案している[277]。各方面は対応に苦慮することになった[278]。 8月18日、竣工する[61][62]。艤装員事務所を撤去した[63]。 2隻(間宮、総洋丸)[271]と分離後、4月24日舞鶴に到着した[272]。同日から9月中旬まで、「巻波」は舞鶴海軍工廠で本格的な復旧工事を実施した(後述)。, 1943年(昭和18年)4月24日、「巻波」は舞鶴に到着した[32][273]。損傷各艦(霞と不知火[274]、初春、太刀風〈5月15日到着〉、阿武隈〈4月17日着、5月17日完成〉、多摩〈5月4日着、20日発〉、名取〈6月1日着〉)等と共に修理に従事する[34][275][276]。 11月3日、「巻波」は輸送任務のためトラック泊地を出撃、11月5日カビエン着後はラバウルに回航された[333][334]。 第31駆逐隊の所属駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、浜波)のうち、3隻(長波、沖波、浜波)は沈没もしくは大破着底状態のため、書類上の存在に過ぎなかった[302][303]。唯一健在だった岸波も12月4日に撃沈され[25]、第31駆逐隊は稼働艦皆無となった[304]。, 1945年(昭和20年)1月10日、長波は艦艇類別等級表から削除[305]。 1418、先行隊も空襲をうけて秋霜が中破した[275]。, この頃、多号作戦第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官・海兵44期。旗艦「島風」)は低速輸送船団を護衛してオルモック湾に向かっていた[277][278]。 前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官[注 8])に合流した[96][97][98]。 5月8日、軍艦5隻(戦艦〈大和〉、空母〈雲鷹、冲鷹〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉)は駆逐艦部隊(長波、潮、夕暮、五月雨)に護衛されてトラックを出港し、それぞれ内地に帰投した[169][170]。5月13日、長波と五月雨は第五戦隊および空母と共に横須賀へ帰投した[171][172]。, 横須賀到着の前日、連合軍はアッツ島に上陸を開始、アッツ島の戦いが始まった[173]。 ヘンダーソン飛行場は損害を受けたが、日本軍が知らなかった新規飛行場は離着陸可能であり、ガ島揚陸中の輸送船団に空襲を加え[113]、輸送船3隻が炎上した[114]。 ガ島撤収作戦(ケ号作戦)成功後、連合艦隊は兵力の再編を実施、「巻波」も原隊に復帰した[257]。, 2月12日、「高波」沈没時に戦死した清水第31駆逐隊司令の後任として、香川清登大佐(海軍兵学校46期)が補職される[258][76]。香川司令は、31駆司令駆逐艦を「大波」に指定する[259]。 8月7日、長波は舞鶴に到着し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなう[197]。 トラック泊地進出後、第31駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共にガダルカナル島の戦いに従事する[5]。戦艦金剛と榛名のヘンダーソン基地艦砲射撃にも同行した[7]。南太平洋海戦では前進部隊に所属、またガ島強行輸送任務(鼠輸送)に従事した[2]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では、輸送船団を護衛した[8]。11月30日のルンガ沖夜戦では、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将の旗艦(外南洋部隊増援部隊旗艦)として活躍したが[9]、姉妹艦高波を喪失した[10]。, 長波は艦の疲弊によりトラック泊地に後退して整備をおこない[11]、ガダルカナル島撤退作戦のあと内地へ帰投した[2]。1943年(昭和18年)3月中旬から舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[12]。5月12日、長波は北方部隊に編入された[13]。7月、島風[14]や五月雨等とともにキスカ島撤退作戦に従事した[4]。 甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した[132]。, 11月10日朝、第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐が指揮する第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)、第31駆逐隊(巻波)、第24駆逐隊(涼風)は第十一戦隊弾着観測員と陸軍兵・物資を載せてショートランド泊地を出撃した[134]。魚雷艇を撃退し、輸送任務も成功する[135]。11日午前中に帰投した[135]。, この頃、ガダルカナル島の戦いは一つの山を迎えつつあり、日本軍は第三十八師団の兵力を輸送船団でガダルカナル島に揚陸することにした[136]。 航行中、「巻波」は米軍機の空襲により損傷した[173][174]。戦死者7名[3]。投下ドラム罐1500個のうち、回収されたのは310個だった[175]。 第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐指揮下のカミンボ隊は[241]、第16駆逐隊(時津風、雪風)、第8駆逐隊(大潮、荒潮)、三番隊(皐月、長月)であった[240]。 各艦は煙幕を展開し[289]、また陸軍戦闘機疾風約30機が出動したが、輸送船団を守り切れなかった[290][291]。つづいて米軍機は護衛部隊に襲い掛かる[292]。第32駆逐隊司令(大島一太郎大佐)の回想によれば、護衛部隊は浜波・若月・島風・長波・掃海艇30号・朝霜の単縦陣であったという[292]。 11月7日にラバウルへ帰投、他方面の輸送任務についていた各艦(夕張、水無月、時雨)も同港に帰投した[342][343]。, 11月11日、ラバウルは再び大規模空襲を受ける[336][344]。第二水雷戦隊は夕雲型駆逐艦「涼波」[345](第32駆逐隊)を喪失する[346]。 三水戦司令官指揮下のエスペランス隊は、警戒隊(三水戦旗艦〈巻波〉、一番隊〈第4駆逐隊司令有賀幸作大佐[238]、舞風、江風、黒潮〉、二番隊〈白雪、文月〉)、輸送隊(第十戦隊司令官小柳冨次少将、第10駆逐隊〈風雲、巻雲、夕雲、秋雲〉、第17駆逐隊〈谷風、浦風、浜風、磯風〉[239])であった[240]。 被雷した「大波」は轟沈[377]。香川清登大佐(第31駆逐隊指令)と大波駆逐艦長吉川潔中佐は戦死した[45][75](2人とも少将に進級)[378][379][380]。 9月4日まで修理を行った[198]。翌日、長波は舞鶴を出撃した[199]。, 修理後の9月15日、長波と島風は重巡洋艦鳥海と摩耶を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう[200]。9月20日にトラック泊地着後、各艦に分乗していた防空隊は摩耶と長波に移乗した[15]。摩耶と長波はラバウルに移動してブカ島配備予定の防空隊を揚陸し、トラック泊地にもどった[15]。任務終了後はトラックで待機し、10月17日からはマーシャル諸島方面に出撃する第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)と第二艦隊(司令長官栗田健男中将)の護衛に就いた[201]。, 10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する[202]。この作戦において、第一航空戦隊の飛行機隊を南東方面の陸上基地に配備することにした[203]。第十戦隊大杉守一少将を指揮官とする輸送部隊(第一部隊〈阿賀野、初風、若月、長波〉、第二部隊〈大波、風雲〉、第三部隊〈天津風〉、修理後投入〈巻波〉)は、それぞれ一航戦の基地員と物件をラバウルやカビエンに輸送した[204][205]。 挺身攻撃隊(指揮官栗田健男第三戦隊司令官)としてトラック泊地を出撃した[109]。 撤退作戦後、長波以下各艦は8月3日附で北方部隊の指揮から離れ[注 17]、原隊に戻ることとなった[195]。長波と響はタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛した[196]。 第31駆逐隊(長波、沖波、浜波、岸波)も解隊された[307]。 年明けた1943年(昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送は、長波ふくめ駆逐艦10隻[注 15]で行われた[150]。レンドバ島付近で空襲をうけ涼風が損傷、電の護衛下で引き返した[150]。最前線で長期間活動していた二水戦各艦は消耗が激しく、4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は前進部隊に復帰した[注 16][151]。1月10日、増援部隊旗艦(二水戦旗艦)は長波から黒潮に変更された[152]。翌日、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将から第十戦隊司令官木村進少将に引き継がれた[152]。12日1000、二水戦司令官は「長波」を率いてショートランド泊地を出発した[152]。14日、トラックに到着した[153]。長波は3月7日までトラック泊地で整備を行った[154]。, 1月19日、第十戦隊旗艦の秋月型駆逐艦秋月は米潜水艦ノーチラスに雷撃されて大破、第十戦隊司令官(木村少将)も負傷した[155]。小柳少将(第二水雷戦隊司令官)は第十戦隊司令官に任命され[155]、長波から将旗を撤収する[148]。神通艦長が臨時に二水戦司令官を代行したあと、後任の二水戦司令官には伊崎俊二少将(海兵42期)が任命された[155]。 四水戦と二水戦の残存兵力を統合し、第二水雷戦隊を再編した[注 21]。 前進部隊本隊に編入後[注 7][83]、9月11日にトラック泊地を出撃する[93][94]。 ラバウルで応急修理後、3月はトラック泊地で応急修理をおこなう[32]。4月下旬、給糧艦「間宮」他を護衛して内地に帰投した[33]。駆逐艦複数隻と共に、舞鶴海軍工廠で修理を実施した[34]。同時期の巻波駆逐艦長人見豊治中佐は不知火駆逐艦長および初春駆逐艦長を兼務した[35][36]。, 同年9月15日、「巻波」の修理完成[6][37]。上海~トラック泊地~ラバウル間の輸送船団を護衛し[38](丁二号輸送部隊)[39]、10月中旬トラック泊地に戻った[40]。 長波(ながなみ)は[1]、日本海軍の駆逐艦[2]。夕雲型駆逐艦の4番艦である[3]。, 一等駆逐艦長波(ながなみ)は[1]、日本海軍が1941年(昭和16年)4月から1942年(昭和17年)6月にかけて藤永田造船所で建造した駆逐艦[4]。竣工後、横須賀鎮守府部隊に所属し、哨戒や訓練をおこなう[2]。8月31日、日本海軍は長波と巻波[5]により第31駆逐隊を新編する[6]。 激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた長波は右舷艦橋下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は朝霜ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した[290][293]。なお朝霜は航行不能になった浜波に接舷し、浜波乗組員を救助してオルモック湾を脱出した[292][294]。朝霜は浜波乗組員で満杯となっており、また米軍機の空襲も続いていたため、他の浮いている艦を救助できなかった[295]。 つづいて長波は、シブヤン海で第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、コロン島経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛を命じられた[注 23][259]。鵯は高雄隊の護衛に戻り、長波はコロン泊地にむかった[30]。, 10月26日1050、栗田長官は3隻(妙高、長波、清霜)に対しコロン出港とブルネイ回航を命じた[260]。この命令受領時、清霜と浜風は戦艦武蔵生存者を乗せてマニラにいたので[261]、命令どおり行動できるのは妙高と長波だけだった[260]。27日1150、妙高と長波はコロンを出発、パラワン水道を通過し、29日1030ブルネイに到着した[260]。同地には栗田艦隊残存艦が到着していた[注 24][263]。, ブルネイ到着前の10月27日1715、豊田副武連合艦隊司令長官はレイテ島地上戦にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、南西方面部隊[注 25]の水上兵力増強を下令した[266]。GF電令作第381号により、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)、第41駆逐隊(霜月、冬月)、第61駆逐隊(若月、涼月)は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入された[267]。29日には、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊に編入された[267]。 これをカールトン・H・ライト少将率いる第67任務部隊(英語版)が迎撃、アイアンボトム・サウンドにおいて夜間水上戦闘となった[159](ルンガ沖夜戦)[160][161]。 以後、第二水雷戦隊各隊・各艦と行動を共にする[41]。 [注 17] つづいて駆逐艦4隻(江風、涼風、巻波、陽炎)をもって第二号哨戒艇(旧駆逐艦〈灘風〉)を護衛、同艦をガ島に擱坐させようという12月27日のラバウル出撃は、ムンダ飛行場に進出した戦闘機隊が大損害をうけて上陸掩護の見込みがなくなり[185]、ガ島に向け航行中に中止となる[186]。各艦はショートランドを経てラバウルに戻った[187]。, 12月29日附で第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将から小柳冨次少将(海軍兵学校42期)に交代した[188][189]。30日、小柳の着任にともない田中は退隊した[190][191]。この人事にともない、外南洋部隊増援部隊指揮官も田中少将から小柳少将に交代した[192]。, 新任の第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将(外南洋部隊増援部隊指揮官)は、旗艦を「長波」に指定した[193]。増援部隊各艦はラバウルからショートランド泊地へ進出する[193]。月暗期になり、鼠輸送が再開された[194]。 この時、ラバウルでは空母サラトガとプリンストンより発進した攻撃隊により[335]、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊(遊撃部隊)が大損害を受けていた[336][337]。, ラバウル到着後の「巻波」は第十戦隊(司令官大杉守一少将)の指揮下に入り、ブーゲンビル島タロキナ輸送に[338]、支援隊(第一支援隊〈阿賀野[339]、若月、風雲、浦風〉、第二支援隊〈能代[321]、早波、長波〉)、挺身輸送隊(警戒隊〈大波、巻波〉、輸送隊〈天霧、文月、卯月、夕凪〉)として参加した[340][341]。

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