チャールズダーウィン 進化論

今回紹介する内容は、これらの進化によって今の人間や他の生き物の姿になったと導きだした有名人。, 名前:チャールズ・ダーウィン 生物の進化について考えるとき、ダーウィンの進化論(種の起源・自然選択説・自然淘汰説)は欠かせない。 ダーウィンは、著書「種の起源」において「自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じる」と記した。 そしてこの過程を「生存競争」「適者生存」などの単語を用いて説明を行った。 自然選択(自然淘汰)とは、 ・生物の個体は同じ種であっても様々な変異が見られる(変 … 進化論(しんかろん、英: theory of evolution)とは、生物が進化したものだとする提唱、あるいは進化に関する様々な研究や議論のことである 。 世界でもここにしかいないというイグアナやゾウガメ、アシカたちと出会うことができる海洋生物の楽園、ガラパゴス諸島。この諸島はダーウィンが進化論を思いつくきっかけを与え、はじめて登録された世界遺産のひとつでもあり、「ガラパゴス化」などといった言葉の元にもなった。 Registration on or use of this site constitutes acceptance of our. しかし、一部の学者はダーウィニズムやネオダーウィニズムを原理主義であると考えており、科学ではないと言う見解がある。[8], 英語の evolution という語は元来ラテン語起原で、内側に巻き込んでおいたものを外側に展開することを意味しており、現在でも「展開」の意味で使われる。最初にこの概念が生物学に援用されたのは、発生学の前成説においてであり、個体発生に際して「あらかじめ用意された個体の構造が展開生成する」プロセスを指していた。今日の日本語で「進化」と翻訳されるような系統発生のプロセスを指す語としての evolution は、個体発生のこの概念を系統発生に対して援用したものである。みずからの進化論において定められた方向への「進歩」を意図していなかったチャールズ・ダーウィンは、当初かれ自身はこの語を積極的に採用していない。, 19世紀頃は、進化は進歩と同義であった。その頃のヨーロッパではフランス革命や啓蒙思想などの普及によって、人間社会が発展のさなかであり、多くの人がそれが生物の進化と同じものであると主張していた。それは神による創造の原点こそが最高の状態で、歴史のプロセスはそこからの堕落による神からの離反であるととらえるキリスト教的生命史観のもたらす不安からの救済思想でもあった。20世紀には、社会的、文化的変化が進歩と厳密に同義であるという考え方は多くの社会科学者から受け入れられないものとなっている。また現在では一般的に、ダーウィンの進化の説明の解釈についても、生物の変化は進歩とは異なるものとして捉えられている。, 19世紀以降は、進化と言った時は、社会や文化のそれでなく、生物の進化を指す。この生物の進化とは、ある生物の集団がある世代から次の世代に代わるときのアリル頻度の変化を意味する。それは、簡単に言えば、すなわちチャールズ・ダーウィンの自然選択のアイデアに基づく種の進化論そのものでもある。「進化」は、単に事実を記述する語に過ぎないのであって、それ自体が価値判断を含むわけでなく、その意味で「進歩」とは異なるのである。にもかかわらず、進化と進歩の混同、事実と規範の混同はしばしば見られ、後述するソーシャル・ダーウィニズムもその誤解の産物であった。, 現在の日本において、一般的に「進化」という言葉が使われている場合、学術的に厳密な「進化」ではなく「進歩・グレードアップ」というニュアンスで用いられ、本来の「進化」もそうであるかのように認識されている。, 19世紀後半にハーバート・スペンサーは自然選択説を社会に適用して、最適者生存によって社会は理想的な状態へと発達していくという社会進化論を唱え、ヘッケルは国家間の競争により、社会が発達していくという社会進化論を唱えた。スペンサーは生物は下等から高等へと進歩していくというラマルクを高く評価していたと言われており、進化に目的や方向性はないと考えるダーウィニズムではないと思われる。その主張は優生学とも異なる。その例によくあげられるナチズムは進化論の原理原則とは対立しており、関連付けるのは不可能である。, 20世紀後半には、エドワード・オズボーン・ウィルソンがその著作『社会生物学』(1975)のなかで、進化論的社会生物学が将来、人間についての社会科学に大きな影響を及ぼすだろうという展望を述べて、大論争をひきおこした。その初期の批判のなかには、ウィルソンや社会生物学の主張をナチズムにむすびつけたものもみられたが、論争を通じて、そうした批判は誤解にもとづくものであることが次第にあきらかになった。この論争の経緯については、社会学者ウリカ・セーゲルストローレがその著作『真理の擁護者たち』(邦訳『社会生物学論争史』)のなかで詳細かつバランスよくまとめている。, 創造論は聖書やクルアーンといった経典内の創造主による創造を主張する。創造論については多くの説があるため、項目参照のこと。, 「生物は進化する」というテーゼは現在では学会で科学的仮説として受け入れられているが、宗教や国によっては信仰的、社会的に受け入れられているとは限らず、アメリカには進化論裁判の例がある。アメリカ合衆国の南部などいくつかの州では、プロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から進化論が否定されている。ケンタッキー州には、進化論を否定する創造博物館が建てられている。, カトリック教会では1996年10月にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」だと述べた。つまり、人間の精神活動の源泉たる魂の出現は、進化論的過程とは関係ないとする限定つきで、進化論をキリスト教と矛盾しないものと認めた。1950年の回勅「フマニ・ゲネリス」(en:Humani generis)でも、生物としての肉体の起源の研究である限りは許容されているが、この回勅の時点では、進化論は未証明の学説とされ否定的に扱われており、進化論を既に実証されたものとして扱う立場が批判されている[9][10]。1958年に刊行されたフランシスコ会訳『創世記』の解説では、進化論が誤りであることが明らかになった、という記述がなされている[11]。その後ヨハネ・パウロ2世の次の教皇ベネディクト16世は「進化論は全ての問いに答えていない」と否定的な認識を示した。しかしさらに次の教皇フランシスコは「神は、自然の法則に従って進化するように生物を創造した」と進化論は創造論と矛盾しない見解を示した[12]。, 近年アメリカ合衆国のいくつかの州において、創造論が明確に学校教育に持ち込まれようとしている。1980年代には裁判で創造論の理科教育への持ち込みを禁ずる判決が出された。そのために、「神による創造を科学的に解明する」運動が創造科学として湧き上がった。しかし創造科学も創造論と同様に科学ではなく宗教であるという連邦裁判所の判決が下された。 自民党広報の公式Twitterが6月19日、憲法改正の必要性を主張するために「チャールズ・ダーウィンの進化論」の言葉とする文章を用いた4コマ漫画を投稿したが、引用された言葉がダーウィンの言説ではないとして、生物学者を中心とした人々からTw ダーウィン進化論とは? ダーウィ ンは、生物の進化について多くの証拠を集めました。. 自民党広報の公式Twitterが6月19日、憲法改正の必要性を主張するために「チャールズ・ダーウィンの進化論」の言葉とする文章を用いた4コマ漫画を投稿したが、引用された言葉がダーウィンの言説ではないとして、生物学者を中心とした人々からTwitter上で非難の声が上がっている。さらに、過去の国会議事録をさかのぼると、国会議員の間でこの誤用が定着している様子が垣間見えた。, 【教えて!もやウィン】第1話 進化論 ②「進化論」(続く)https://t.co/bpvswQGEL4#憲法改正#もやウィン#4コマ漫画pic.twitter.com/wpNFW59ey9, 誤用が明らかになった投稿は、6月19日に憲法改正について投稿した4コマ漫画だ。6月22日午前9時現在で1121リツイート、「いいね」は6000を超えている。, 漫画では「もやウィン」というキャラクターが「ダーウィンの進化論ではこういわれておる」とした上で、以下のようなセリフが記されている。, 最も強い者が生き残るのではなく最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは変化できる者である。, その上で、もやウィンが「これからの日本をより発展させるために いま憲法改正が必要と考える」と述べている。, ところが、この4コマ漫画に用いられた言葉は、ダーウィンの言葉として誤用される有名な例だった。, 「ダーウィン・コレスポンデンス・プロジェクト」では「ダーウィンが言ったことのない6つのこと」として誤用例を紹介している。, 英ケンブリッジ大学図書館と米社会学会が共同し、ケンブリッジ大学歴史科学哲学部に所属するダーウィンの書簡研究チーム「ダーウィン・コレスポンデンス・プロジェクト」によると、自民党広報が投稿した言葉は、ダーウィンによる言葉ではないとして紹介している。, 科学史家の松永俊男氏も、その著書『チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会』の中で、ダーウィンの著作物にこれらの言葉はないと指摘している。, 「進化論」とは生物学の学説で、生物は神によって創造されたものではなく原始生物から環境に応じて次第に変化してきた……とする考え方だ。, 近代における「進化論」の萌芽は、1809年に『動物の哲学』を発表したラマルクの「用不用説」に代表され、その50年後に『種の起原』(1859年)を著したダーウィンが学説を体系化し、確立。「自然選択」「適者生存」による進化論を主張した。, 例えば「キリンの首はなぜ、長いのか?」という問いに対し、「たまたま首が長いことが生存に有利にはたらき、生き残っていった」と考えるのがダーウィンの進化論だ。「高い所にある葉っぱを食べるために、首を長く伸ばした個体だけが生き残った」という考え方ではない。, 誤解されがちだが「弱肉強食」を主張したわけではない。「退化」もまた、進化の一つだ。生物の進化に科学的な法則を見出そうとした、それがダーウィンだった。, だが悲劇的なことに、ダーウィンの「進化論」に影響を受けたダーウィンの従兄(いとこ)フランシス・ゴールトンが「優生学」を主唱することになる。, 優生学とは、遺伝学的に「劣った人間」を減らし、「優秀な血統」や「優れた人種」を増やすことを唱えたもの。ここから、遺伝的に優れた性質を持つ子孫のみを残そうと“生命の選別”をする「優生思想」が生まれた。, イギリスで生まれた優生思想は大西洋を渡り、アメリカで広がった。1907年にはインディアナ州が世界初の断種法が制定、やがて各州へ。1930年代末までには米全土で3万人が強制的に断種(中絶)をされたという。, 「優生思想」は、ヨーロッパにも暗い影を落とした。1933年、ドイツではヒトラー政権が成立。ナチス・ドイツはアメリカ・カリフォルニア州に範をとった厳格な断種法を制定した。, ナチス・ドイツでは、ダーウィンの進化論と「優生学」を結びつけ、優れた素質の人間だけで社会をつくるという差別的な思想が推し進められた。, 精神障害者、知的障害者、依存症などの患者、目や耳の不自由な人など社会的弱者が断種され、命を奪われ、やがてユダヤ人やシンティ・ロマの虐殺へと至った。, 日本も例外ではない。戦時下だった1940年には「国民優生法」が制定され、「悪質な遺伝性疾患の素質を持つ者」の増加を防ぐためとして不妊手術を促し、「健全な素質を持つ者」には中絶・不妊手術を制限した。, 戦後になると、国民優生法は「優生保護法」(1948年)として改定。「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的」としたものだった。, この法のもと、優生思想に基づき遺伝性疾患、精神障害、さらにはハンセン病を理由とした強制的な不妊・中絶手術が容認された。, 優生保護法は、1996年に「母体保護法」として改正されるまで残り続けた。今からたった24年前のことだ。それまでの強制的な不妊手術は1万6000件以上にのぼる。, ヒトラーのみならず、さまざまな国・勢力が、政治・社会・経済変革を正当化するために、「進化論」やダーウィンの名、そこから後世に派生した「優生学」を利用してきた経緯がある。, 権力者や為政者が「進化論」を持ち出したときは「誤用ではないか」「誤解を招く内容ではないか」と、より注意深く見定める必要があると、歴史は伝えている。, 日本の政治家の間では与野党を問わず、自民党広報がダーウィンの言葉として紹介した言葉を国会質疑・答弁で用いた例が複数例あった。何らかの変革を訴えたい場合、使い勝手の良い言葉なのかもしれない。, 近年で代表的なのは、自民党の小泉純一郎元首相だ。小泉氏は首相在任中の所信表明演説(2001年9月27日、衆院本会議)で以下のように述べている。, いよいよ、改革は本番を迎えます。我が国は、黒船の到来から近代国家へ、戦後の荒廃から復興へと、見事に危機をチャンスに変えました。これは、変化を恐れず、果敢に国づくりに取り組んだ国民の努力のたまものであります。私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、この世に生き残る生き物は最も力の強いものか、そうではない、最も頭のいいものか、そうでもない、それは変化に対応できる生き物だという考えを示したと言われています。私たちは、今、戦後長く続いた経済発展の中では経験したことのないデフレなど、新しい形の経済現象に直面しています。日本経済の再生は、世界に対する我が国の責務でもあります。現在の厳しい状況を新たなる成長のチャンスととらえ、改革なくして成長なしの精神で、新しい未来を切り開いていこうではありませんか。, ダーウィンは進化論の中で、生き残る生物、これは最も大きなものでも最も強いものでもなく、最も環境に適応できる生き物だと、このように言っております。さまざまな支援策であったりとか支援の体制、活用していただいて、小規模事業者、これが地域の経済環境の大きな変化にしっかりと対応していくことを期待をいたしております。(第186回国会 参議院 経済産業委員会 第17号 平成26年6月17日), ダーウィンは進化論の中で、生き残っていく生物は、最も大きなものでも最も強いものでもなく、一番環境に対応できるもの、このように語っております。小規模企業者が事業環境の変化にしっかりと対応できるよう、国としても全面的な支援をしてまいりたいと考えております。(第186回国会 衆議院 経済産業委員会 第20号 平成26年5月30日), ダーウィンも進化論の中で、生き残っていく生物は、大きなものでも強いものでもなく、一番環境に対応できるものということです。地球上の歴史を見ても、カンブリア紀に生命の多様化が進む、その後、ジュラ紀そして白亜紀を経て、恐竜が闊歩する時代でありますけれども、地球に隕石が落ちることによって氷河期に入り、哺乳類が出てくるわけでありますけれども、そこで新しい新陳代謝が生まれるわけです。卵で産まない。新しい種の残し方として、そのまま胎盤の中に胎児を残すということになってくるわけであります。さまざまなオプションというのを、これからはやはりエグジットの中でも持っていかなければいけない、こんなふうに考えておりまして、IPO以外でも、M&A、そしてベンチャー企業の経営者による買い戻し、こういった方法が有望であると考えております。, かつて、「種の起原」を著し、そして進化論を唱えたダーウィンは、最も強い種が生き残るのではない、最も変化に対応できる種が生き残ると断言したわけであります。(第178回国会 衆議院 本会議 第2号 平成23年9月14日), 進化論を説いたダーウィンは、なぜ、大きな恐竜たちが滅び、小さな哺乳類が生き延びたかについて、強いものが生き残るのではない、賢いものが生き残るのでもない、みずからを変えるもののみが生き残ってきたのだと言ったと言われています。この言葉は、今、我々国会議員の胸に深く突き刺さるのではないでしょうか。まず、国会の私たちが変わりましょう。(第177回国会 衆議院 本会議 第21号 平成23年5月19日), この第三の危機というものを乗り切るために国の活力をどこに求めるかという答えは、私はそこだと思います。進化論のダーウィンというのが、適者生存という中でこういうふうに言っているんですね。生き残る種というのはどういう種か、それは、強い種が生き残るんじゃ必ずしもない、あるいは知性のある知的な種が生き残るのでも必ずしもない、みずからを変えることができる種のみが生きていく、生き残っていくんだと。これは大事な言葉ですね。(第177回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成23年1月31日), そこでは、社会経済情勢の変化に対応したものとする、つまり、これは国内外のいろいろな変化についていける日本にするんだ、そのための改革なんですね。よく引き合いに出されるのがダーウィンの進化論、正式には「種の起原」であります。この「種の起原」ではどういうことが言われているか。釈迦に説法だと思いますけれども、生き残る種とは、体の大きな種でもなければ、力の強い種でもない。生き残る種とは、環境の変化に対応できる、その種こそがまさに生き残ると言っているわけですね。(第174回国会 衆議院 内閣委員会 第5号 平成22年4月9日), 今年はダーウィン生誕211年、「種の起源」発表から161年にあたるが、いまなおダーウィンや「進化論」をめぐる言説は誤用されつづけている。, 日本上陸した“スニーカー版メルカリ”は企業価値1000億円に…コロナで過熱する「限定スニーカー転売」狂騒曲, KDDIのiPhone 12/12 Pro価格決定。髙橋社長は携帯料金値下げも示唆「総理が急げと…」(会見詳報), iPhone 12の新アクセサリー「MagSafe」とは? いま買える物・買えない物まとめ, 価格7万4800円から。アップルの注目「iPhone 12 mini」はiPhone 12とココが違う, 急成長のワークマン、「#ワークマン女子」でユニクロ追撃…“インスタ映え”だけではない店舗戦略, 風変わりなタイニーハウスが並ぶキャンプサイト…すべて牛小屋や飼料サイロ、配送車両などをリサイクル, まずは借金の返済…専門家が教える、ミレニアル世代が投資を始めるときの4つのチェックポイント, 【週間天気】明日17日(土)は広範囲で雨。関東は日差し恋しい空続く 10月17日〜23日, Dropboxが「バーチャルファースト」企業宣言。永久リモートを基本に、社員の交流専用スタジオも開設, ツイッターがトランプ陣営のアカウントをロック…ニューヨーク・ポストの記事を広めようとしたため, 世界最高峰のAI技術者は、いかに学び、いかにビジネスを変えるのか。パナソニックの商売を動かし始めた33歳の挑戦, Copyright © 2020 Mediagene Inc. 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Charles Robert Darwin。1809年02月12日~1882年04月19日。イギリス。 種の起源 進化論(しんかろん、英: theory of evolution)とは、生物が進化したものだとする提唱、あるいは進化に関する様々な研究や議論のことである[1]。, 生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきた、という仮説(学説)に基づいて、現在見られる様々な生物は全てその過程のなかで生まれてきたとする説明や理論群である。進化が起こっているということを認める判断と、進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある。なお、生物学における「進化」は純粋に「変化」を意味するものであって「進歩」を意味せず、価値判断について中立的である。, 進化は実証の難しい現象であるが(現代では)生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている[2][3][4][5] (詳細は、進化の項目も参照のこと)。, 初期の進化論は、ダーウィンの仮説に見られるように、画期的ではあったが、事実かどうか検証するのに必要な証拠が十分に無いままに主張されていた面もあった。だが、その後の議論の中で進化論は揉まれて改良されつつある。現代的な進化論は単一の理論ではない。それは適応、種分化、遺伝的浮動など進化の様々な現象を説明し予測する多くの理論の総称である。現代の進化理論では、「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」だと考えられている。, 本項では進化思想、進化理論、進化生物学の歴史、社会や宗教との関わりについて概説する。, なお、生物学において「進化論」の名称は適切ではないため、「進化学」という名称に変更すべきだとの指摘がある[6][7]。, 古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロスは生命は海の中で発展し、のちに地上に移住したと主張した。エンペドクレスは非超自然的な生命の誕生を論じ、後の自然選択に類似した概念を書いている。中国では荘子が進化思想を持っていた。ジョセフ・ニーダムに拠れば、道教ははっきりと種の不変性を否定し、道教の哲学者は生物が異なる環境に応じた異なる特徴を持っていると推測した。彼らは自然に対して、当時の西洋の静的な視点とは対照的に「恒常的な変化」を見いだした。古代ローマの哲学者ルクレティウスはギリシアのエピクロス主義に基づいていかなる超自然的干渉もなしで宇宙、地球、生命、人間とその社会が発展すると論じた。, ローマに受け継がれたギリシアの進化思想はローマ帝国の没落と供に失われたが、イスラムの科学者と哲学者へ影響を与えた。イスラムの学者、哲学者で詳細に進化を推測したのは9世紀のAl-Jahizであった。彼は生物の生存のチャンスと環境の影響を考え、「生存のための努力」を記述した。Ibn Miskawayhは蒸気から水、鉱物、植物、動物、そして類人猿から人へと進む生命の発展の歴史を書いた。イブン・アル・ハイサムは進化論を称賛する本を書いた。他の学者たちアブー・ライハーン・アル・ビールーニー、ナスィールッディーン・トゥースィー、イブン=ハルドゥーンらも進化思想について議論した。彼らの本はルネサンス以降ラテン語に翻訳されてヨーロッパに持ち込まれた。, ルネ・デカルトの機械論は宇宙を機械のようなものと見なす科学革命を促した。しかしゴットフリート・ライプニッツやヨハン・ゴットフリート・ヘルダーのような同時代の進化思想家は進化を基本的に精神的な過程だと見なした。1751年にピエール・ルイ・モーペルテュイはより唯物論的な方向へ傾いた。彼は繁殖と世代交代の間に起きる自然の修正について書いた。これは後の自然選択に近い。18世紀後半のフランスの自然哲学者ビュフォンはいわゆる「種」は原型から分離し環境要因によって際だった特徴を持ったものだと考えた。彼はライオン、ヒョウ、トラ、飼い猫が祖先を共有するかも知れず、200種のほ乳類が38の祖先に由来すると論じた。彼はその祖先は自然発生し、内的要因によって進化の方向が制限されていると考えた。ジェームズ・バーネットは人が環境要因によって霊長類から誕生したのではないかと考えた。チャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンは1796年の著書『ズーノミア』で全ての温血動物は一つの生きた糸に由来すると書いた。1802年にはすべての生物は粘土から発生した有機物に由来すると述べた。また性選択に通じる概念にも言及していた。, ジョルジュ・キュビエは1796年に現生のゾウと化石のゾウの違いを発表した。彼はマストドンとマンモスが現生のいかなる生物とも異なると結論し、絶滅に関する長い議論に終止符を打った。1788年にはジェームズ・ハットンが非常に長い間、連続的に働く漸進的な地質プロセスを詳述した。1811年にはキュビエとアレクサンドル・ブロンニャールはそれぞれパリ周辺の地質について研究を発表し、地球の先史時代研究の先駆けとなった。, 1840年代までに地球の膨大な地質学的時間は大まかに明らかになっていた。1841年にジョン・フィリップスは主な動物相に基づいて古生代、中生代、新生代に区分した。このような新たな視点はセジウィックやウィリアム・バックランドのようなイギリスの保守的な地質学者からも受け入れられた。しかしキュビエは生命の発展の歴史を度重なる天変地異による生物相の入れ替えと見て天変地異説を唱えた。さらにその支持者は天変地異に続く新たな創造によると考えた。バックランドのようなイギリスの地質学者の中の自然神学の支持者はキュビエの激変説と聖書の洪水のエピソードをむすびつけようとした。1830年から33年にかけてチャールズ・ライエルは『地質学原理』を著し、激変説の代替理論として斉一説を提唱した。ライエルは実際の地層は天変地異よりも、現在観察されているような穏やかな変化が非常に長い時間積み重なって起きたと考える方が上手く説明できると論じた。ライエルは進化に反対したが、彼の斉一説と膨大な地球の年齢という概念はチャールズ・ダーウィンら以降の進化思想家に強く影響した。, ジャン=バティスト・ラマルクは、最初は生物が進化するという考えを認めていなかったが、無脊椎動物の分類の研究を進めるうち、19世紀になって、生物は何度も物質から自然発生によって生じると考え、著書『動物哲学』で進化の学説を発表した。, ラマルクは進化のしくみについて、使用・不使用によって器官は発達もしくは退化し、そういった獲得形質が遺伝する。従って非常に長い時間を経たならば、それは生物の構造を変化させる、つまり進化すると考えた。ラマルクのこの説を用不用説と呼ぶが、生物にとって適切な形質が進化するという意味では適応説と考えてよい。彼は、進化は常に単純な生物から複雑な生物へと発展していくような、一定の方向をもつ必然的で目的論的な過程だと考えた。複雑な生物は大昔に発生し、単純な生物は最近に発生した途中の段階のもので、やがて複雑な生物に変化していくと考えた。生前彼の唱える進化の機構には賛同が得られなかったが、ダーウィンはパンジェネシスという考えで獲得形質の遺伝を自説に取り込もうしたし、ネオラマルキストを自称する科学者達は、RNAからDNAの逆転写にその科学的な説明を与えようとすることが知られている。, 現在ではその説に否定的な研究者が多いものの、ラマルクの仮説は科学的手続きによって検証される最初の進化論であり、そのことに関して異論をもたれることはない。, イギリスの解剖学者ロバート・グラントはラマルクの「生物変移論」学派の影響を受けた。グラントに影響を与えたもう一人、エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールは様々な動物の解剖学的特徴の相同性やボディプランの類似を論じ、これはキュビエとの間に激しい論争を引き起こした。グラントは種の変化と進化についてエラズマス・ダーウィンとラマルクの考えを証明するために海洋生物の解剖学の研究を行い権威となった。ケンブリッジ大学の若い学生であったチャールズ・ダーウィンはグラントに加わって海洋生物の調査を行った。1826年に匿名の記事がラマルクの進化思想を称賛した。このとき初めて現在的な意味で「進化」が使われた。, 1844年にスコットランドの出版業者ロバート・チェンバースは匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版した。これは幅広い関心と激しい論争を引き起こした。この本は太陽系と地球の生命の進化を提案した。彼は化石記録が人間に繋がる上昇を示しており、他の動物は主流を外れた枝だと論じた。進化が定められた法則の発現であるとする点でグラントのより過激な唯物論より穏やかであったが。人間を他の動物と結び付けたことは多くの保守派を激怒させた。『痕跡』に関する公的な議論は進歩的進化観を含んでおり、これはダーウィンの認識に強く影響した。キュビエは種が不変であると主張し続け、ラマルクとサンティレールを攻撃した。キュビエの主張と科学的地位の高さは「種の不変性」が科学界の主流でありつづける助けとなった。, イギリスでは自然神学が力を持ち続けていた。ウィリアム・ペイリーの時計職人のアナロジーで有名な『自然神学』は一部はエラズマス・ダーウィンの種の変化に対して書かれた。地質学者は自然神学を受け入れており、バックランドやアダム・セジウィックはラマルク、グラント、『痕跡』の進化思想を攻撃した。聖書の地質学を批判したライエルも種は不変であると考えていた。ルイ・アガシーやリチャード・オーウェンのような思想家も種は創造主の心を反映しており不変だと考えていた。彼らは化石記録と同様に、発生パターンの種間の類似性にも気付いていたが、神の行為の一部だと考えていた。オーウェンは相同性の研究から神が創造した「原型」が一連の類似種を生み出すのだと考えた。ダーウィンはオーウェンの相同性の研究を自分の理論の発展に用いた。『痕跡』が引き起こした論争は考えの性急な公表を思いとどまらせた。, チャールズ・ダーウィンは、1831年から1836年にかけてビーグル号で地球一周する航海をおこなった。航海中に各地の動物相や植物相の違いから種の不変性に疑問を感じ、ライエルの『地質学原理』を読んだ。そして地層と同様、動植物にも変化があり、大陸の変化によって新しい生息地が出来、動物がその変化に適応したのではないかと思った。1838年にマルサスの『人口論』を読み自然選択説を思いついたと自伝には書かれている。ハトの品種改良についての研究でさらに考えがまとまっていった。, 1858年にアルフレッド・ウォレスがダーウィンに送った手紙に自然選択説と同様の理論が書かれていたことに驚き、自然選択による進化理論を共同で発表したダーウィンはさらに執筆中であった『自然選択』と題された大著の要約をまとめ、1859年11月24日に『種の起源』として出版した。, 『種の起源』のなかでは、現在の「進化」を指す用語として、あらかじめ内在的に用意された構造の展開出現を意味する"evolution"ではなく、「変更を伴う由来」(Descent with modification)という語を使っている(evolutionの原義については下の項目を参照のこと)。また自然選択(natural selection)、存在し続けるための努力(struggle for existence、現在では通常生存競争と訳される)、そして後の版ではウォレスの提言を受け入れ自然選択をわかりやすく説明する語としてハーバート・スペンサーの適者生存を使用した(生存競争や適者生存は誤解を招きやすいために近年では用いられない)。これらの要因によって環境に適応した形質を獲得した種が分岐し、多様な種が生じると説明した。, ダーウィンは、進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。, ウォレスは性選択説を認めず非適応的と思われる形質(例えばクジャクの羽)も自然選択で説明しようと試みたが、これは現在の優良遺伝子説に近い説明であった。またウォレスは人間の高い知性や精神的能力は神のような超自然的存在の干渉によるものだと考えた。, ダーウィンの進化理論は多くの批判・反論を受けたが、多くの支持も得て次第に影響を広げていった。この影響はその後、自然科学の枠外にまで広がった。しかし進化を駆動する原因として自然選択説の承認は時間がかかった。ジュリアン・ハクスリーはこの時期を「ダーウィンの黄昏」と呼んだ。19世紀後半以降、自然選択説の代替理論として当時有力視された代表的なものは有神論的進化論、ネオラマルキズム、定向進化説、跳躍説である。, 有神論的進化論は神が生物の進化に介入したと考えた。これはアメリカでダーウィンを強く支持した植物学者エイサ・グレイによって広められた。しかしこの考えは、当時、学問的に非生産的とみなされ、1900年ごろには議論されなくなった。, 定向進化説はより完全な方向に向かって直線的に生物が進化するという概念である。この考えも19世紀にはかなりの支持者がおり、アメリカの古生物学者ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンがその代表である。定向進化説は特に古生物学者の間で人気があり、彼らは20世紀半ばまで化石記録が段階的で安定した方向性を示していると考えていた。, 跳躍説は新しい種が大きな突然変異の結果として出現するという考えである。ダーウィンの強力な支援者であったトマス・ハクスリーも「自然は飛躍しない」というダーウィンの主張に疑問を呈し、跳躍的な進化を先験的に排除すべきではないと考えた。アーガイル公など当時の進化論の支持者の多くも跳躍説を支持した。ユーゴー・ド・フリース、ウィリアム・ベイトソン、そしてトーマス・ハント・モーガンも経歴の初期には跳躍論者だった。これは突然変異説発見の基盤となった。, 1865年に発表されたメンデルの法則は、当時は重要性が全く理解されなかったが、1900年に再発見されて広い支持を得た。メンデルの遺伝子に関する説では、遺伝子は親の生活とは何の関係もなく全く変化せずに子孫に受け渡されるため、進化を否定する理論と考えられた。, 突然変異は、ド・フリースによって発見された。これによって遺伝学からも遺伝子に変化を生じる可能性、つまり進化の可能性が認められた。しかしド・フリースは自然選択とは無関係に突然変異によって新しい種が生じ、生じた種の間に自然選択が起こるという跳躍説の一種である突然変異説を提唱した。, この発見は種内の個体の量的形質とその統計に関心を持っていたピアソン、ウェルドンに代表される生物測定学者と、ド・フリース、ベイトソンに代表される不連続的な変異を重視するメンデル派遺伝学者の間に激しい対立を引き起こした。, T.H.モーガンは突然変異説を確かめようとキイロショウジョウバエで実験を行った。モーガンの研究は染色体説の提唱に繋がると同時に、突然変異が直接に新種を生み出すことはまずないと考えられるようになった。そして個体に遺伝的変化を生じさせ、自然選択が働く遺伝的多様性を増加させる原因であることが判明した。, 1930年代に確立された集団遺伝学は、生物測定学とメンデル遺伝学の間の不一致、連続的形質と不連続な遺伝子という問題を一貫して説明可能であることを示した。また遺伝子頻度の変化を進化と考え、その要因の説明に努力が注がれた。, ロナルド・フィッシャーは生物統計学の統計手法と遺伝学を結び付けた。J・B・S・ホールデンは実際に野外で自然選択が働いていることを認めた。シーウォル・ライトは遺伝的浮動と適応景観の概念を提唱し、小集団における選択、浮動の効果を調べた。エルンスト・マイヤーは種分化のメカニズムを解明し、多くの種分化は地理的に隔離された個体群で起きると主張した。, こうした新たな学問分野の確立や研究の進展によって、ダーウィンの自然選択説を基本にしつつ、集団遺伝学、系統分類学、古生物学、生物地理学、生態学などの成果を取り入れて生物の形質の進化を説明することが主流になった。これを総合説(ネオダーウィニズム)と呼ぶ。, 総合説に関わった生物学者は多く、唱えた説は少しずつ異なる。総合説を批判する論者は、総合説の中の特定の意見を総合説と見なして批判していることが多い。, 伝統的な総合説では、生物の進化は偶然に生じる突然変異に委ねられており、自然選択は有利な突然変異が生じなければ意味をなさない。このことに納得できない研究者が、生物自身が進化の方向を決めているはずだという説を出すことが再三あった。特に、長い期間の変化を追う古生物学者などにその例が多い。そのような考えをネオ・ラマルキズムと言う。, ネオラマルキズムは獲得形質の遺伝を進化の最も重要なメカニズムと見なし、ダーウィンを批判したイギリスの作家サミュエル・バトラーや、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル、アメリカの古生物学者エドワード・コープらに支持された。獲得形質の遺伝はヘッケルの反復説の一部であった。ネオラマルキズムの批判者、例えばアルフレッド・ウォレスとアウグスト・ヴァイスマンは獲得形質の遺伝の強固な証拠が一度も提示されていないと指摘した。この批判にもかかわらず、獲得形質の遺伝は19世紀後半から20世紀序盤でもっとも人気のある説のままだった。, 定向進化説を唱えたアイマーがこの代表である。彼は化石の記録を見て、生物に内在する力が原因で、適応的かどうかとは無関係に一定方向に進化が起こると主張した。今西錦司の進化論にもその傾向がある。, アウグスト・ヴァイスマンは、19世紀後半に生殖細胞と体細胞を分け、次世代に形質を遺伝させることができるのは生殖細胞だけで、体細胞が獲得した形質は遺伝しないと主張し、獲得形質の遺伝を唱えるネオ・ラマルキズムを批判した。また、分子遺伝学的知識からも、こうした説は否定されている。, 20世紀の半ばには分子生物学が興隆した。分子生物学は遺伝子の化学的性質を明らかにし、DNAの配列とそれらが持つ遺伝的暗号の関連を解明する道を拓いた。特にタンパク質電気泳動やプロテインシーケンスなどの強力な技術の発展が進んだ。1960年代初頭に生化学者ライナス・ポーリングとエミール・ズッカーカンドルは分子時計説を提唱した。二つの種の相同なタンパク質の配列の差異は、二つの種が分化してからの時間を示しているかも知れない。1969年までに木村資生やそのほかの分子生物学者は分子時計の理論的な基礎を確立した。そして、少なくとも分子レベルでは、大部分の突然変異は有害でもなく役に立ちもせず、遺伝的浮動は自然選択よりも遺伝子頻度の変動に重要な役割を果たすと主張した。またこの分野は集団遺伝学に分子データの利用をもたらした。, 1960年代初頭から、分子生物学は進化生物学の伝統的な視点に対する脅威と見なされた。指導的な進化生物学者、特にエルンスト・マイヤー、テオドシウス・ドブジャンスキー、G.G.シンプソンらは分子的なアプローチが、特に自然選択との関わりについて(あるいは関わらないことについて)非常に懐疑的だった。分子時計と中立説は非常に論争的で、浮動と選択の相対的重要性に関する議論は1980年代まで続いた。, 現在はそもそも突然変異と言われたゲノム上の変異はランダムではなく、DNAの修復機構や複製機構に根ざした、方向性のある変異であるという理解がされつつある。例えば大野乾は複製における遺伝子重複が進化に果たす役割を説き、古澤満は岡崎フラグメントによるDNA複製において、一方の鎖は突然変異の確率が高いという不均衡進化論を唱えるなど知られている。また、個体数動態の変動に伴う創始者効果やビン首効果、個体群の周辺に進化が起きやすいと言った生物の社会集団における動的不平衡に着目したものや、スチュアート・カウフマンのように自己組織化による形質形成を重視した説もある。こういった議論の下敷きになっているのは、1968年に発表された木村資生の中立進化説である。, 中立説は、変異自体は生物にとって有利なものは少なく、実際は生物にとって有利でも不利でもない中立的なものが多いが、それが遺伝的浮動によって偶然広まることでも進化(中立進化)が起こると考え、適応進化については自然選択が原動力になると考える。モーガンも、中立説に似た考えを1932年に提唱したと言われている。, 中立説は現在の進化学では非常に重要な位置を占める。例えば種分化の起きた時期を調べる分子時計はゲノムの自然選択が働いていない部分に注目するため、中立説を理論的根拠としている。近年発達した分子生物学のDNA研究によって、生物のDNAに刻まれている遺伝情報の類似性をもとに生物進化の系統図を構築する研究が進められている(分子系統進化学)。, 1960年代中頃に、ジョージ・ウィリアムスは生物の適応を「種の存続のため」と説明する立場を批判し、群選択論争を引き起こした。そのような説明は進化における遺伝子中心の視点によって置き換えられ、W.D.ハミルトン、G.R.プライス、ジョン・メイナード=スミスらの血縁選択説に集約された。この視点はリチャード・ドーキンスの1976年の影響力のある著書『利己的な遺伝子』で概説された。古典的な群選択は非常に制限された状況でしか起きえないことが示されたが、その後でより洗練された新しいバージョン(マルチレベル選択説)が提案された。, 1973年にリー・ヴァン・ヴェーレンはルイス・キャロルから引用した「赤の女王仮説」を提案した。ある種の生物が進化すれば、それに関わる他の生物(特に捕食者や被食者)も対抗適応を発達させ進化を続ける。このような視点は進化的軍拡競走と呼ばれる。ハミルトン、ウィリアムズらはこの考えが有性生殖の進化にも応用できるかも知れないと考えた。有性生殖によってもたらされる遺伝的多様性は、生活環が短く急速に進化する寄生生物への抵抗を維持することができ、そのために遺伝子中心の視点からは無駄が多いはずの有性生殖は一般的になりうる。遺伝子中心の視点はダーウィンの性選択説を甦らせ、近年では雌雄間の対立、親子の対立、イントラゲノミックコンフリクトに焦点が当てられている。, W.D.ハミルトンの血縁選択の研究は社会生物学(行動生態学)の登場に寄与した。利他的行動の存在はダーウィンの時代から進化理論からは説明が困難であると考えられていた。1964年の論文はこの問題の解決を大きく前進させた。昆虫における真社会性(繁殖しない個体の存在)だけでなく、様々な利他的行動を血縁選択説は説明できる。利他的行動を説明する理論はさらに続いた。そのうちいくつかは(進化的に安定な戦略、互恵的利他主義)はゲーム理論に由来する。1975年にE.O.ウィルソンは影響力があり、非常に論争的でもある著作『社会生物学:新たなる総合』を出版した。その本でウィルソンは進化理論が人間も含む多くの動物の利他的な振る舞いを説明できると論じた。スティーヴン・ジェイ・グールド、リチャード・ルウォンティンを含む批判者は、社会生物学が人間の行動に関する遺伝的要因の影響を誇張していると批判した。またその主張はイデオロギー的偏見を含んでおり科学ではないと批判した。そのような批判にもかかわらず社会生物学の研究は続いた。1980年代以降のダーウィン・メダルとクラフォード賞生物科学部門の受賞者の半分以上がこの分野の研究者で占められる。, この分野の研究者の一部は行動に関わる遺伝子へ目を向け、分子生物学との交流を促した。その結果、生物の社会行動の分子的基盤を解明する分子生態学という新たな分野の誕生に繋がった。, 細菌学は初期の進化理論では無視されていた。これは細菌、特に原核生物での形態的な特徴の欠如と、種概念が十分に整っていなかったことが原因であった。現在、進化の研究者はよりすぐれた微生物生理学と微生物生態学の理解を持っている。これらの研究で微生物の完全に予想とは異なるレベルの多様性があきらかになっており、それは微生物が地球の生命として支配的であることを示している。微生物進化の研究で特に重要な発見は1959年に日本で見つかった遺伝子の水平伝播である。バクテリアの異なる種間で行われる遺伝物質の伝達は薬剤耐性の進化の研究において重要な役割を果たした。近年ではゲノムに関する理解が進展し、遺伝物質の水平伝播がすべての生物の進化で重要な役割を果たしたことが示唆されている。特に、細胞小器官の起源を説明する細胞内共生説の一部として遺伝子の水平伝播は真核生物においても重要なステップであった。, 1980年代と1990年代には総合説は詳細な研究に注目した。進化生物学への構造主義的な視点はスチュアート・カウフマンやブライアン・グッドウィンのような生物学者からもたらされた。彼らはサイバネティクスと一般システム理論からアイディアを取り入れて、発生過程における自己組織化機構を強調し、進化にも直接作用する要因であると述べた。スティーヴン・ジェイ・グールドは発達過程における器官ごとの成長率の相対的な差が、進化における新しいボディプランの起源となるのではないかと考え、初期の進化理論の概念であったヘテロクロニーを甦らせた。遺伝学者リチャード・ルウォンティンはある生物の適応が最初から最後まで同じ選択圧の産物として誕生するのではなく、他の適応の偶然の産物として誕生することがあるのではないかと考え1979年に影響力のある論文を書いた。そのような構造の付帯的な変化を彼らはスパンドレルと呼んだ。のちにグールドとヴルバはそのような過程で得られる新しい適応構造を外適応と呼んだ。, 発生に関する分子的なデータは1980年代から90年代にかけて急速に蓄積された。それは動物の形態的多様性が動物種ごとに異なったタンパク質によってもたらされるのではなく、多くの動物種で共通したわずかな一連のタンパク質によって起こされていることを明らかにした。それらのタンパク質は発生的な「ツールキット」として知られるようになった。このような視点が系統発生学、古生物学、比較発生学に影響を与え、進化発生生物学(エボ-デボ)と言う新たな分野を生み出した。この分野は現在表現型と発達的な可塑性に注目している。, 例えばカンブリア爆発の基礎的な動物のボディプランの登場は、部分的には環境の変化に伴って起きた細胞同士の固有の組織化が原因で、そのあとの自然選択によって定着したかも知れないと示唆された。このようなアイディアは複数の著者によって論文集『Origination of Organismal Form』として出版された。, ダーウィンが提案した進化理論の中で、共通祖先からの進化、集団内の変異の変化によって生じる進化、種分化と分岐による生物多様性、適応進化における自然選択の役割は現在の進化学においても揺るぎのない枠組みとなっている。一方20世紀中盤に進化学に加わった中立説は分岐系統学に新たな証拠を提供し、自然選択の働かないランダムな進化過程のメカニズムを明らかにしようとしている。, 現在、集団遺伝学、生態学、生物地理学、古生物学などの総合的な分野として発展してきた進化学は、さらに、分子生物学、進化ゲノム学(Evolutionary Genomics)、進化医学など、様々な分野の進展を取り込みながら、確立された科学の一分野として発展している。近年、発表される様々な報告や機構の提唱などは、基本的にダーウィンの考えた大まかな進化の枠組みを基盤として、さらに発展させる方向に進んでいる。 世界でもここにしかいないというイグアナやゾウガメ、アシカたちと出会うことができる海洋生物の楽園、ガラパゴス諸島。この諸島はダーウィンが進化論を思いつくきっかけを与え、はじめて登録された世界遺産のひとつでもあり、「ガラパゴス化」などといった言葉の元にもなった。他に例がない生態系やダーウィンの自然選択説とともに、エクアドルの世界遺産「ガラパゴス諸島」の見所や歴史・行き方・ツアーなど観光情報を紹介する。, ウミイグアナ。凶悪な顔をしているが、食べるのは主に海藻。海を泳いだり潜ったりすることもできる。IUCN(国際自然保護連合)レッドリスト危急種, ガラパゴスゾウガメの群れ。平均寿命は100歳を超え、150歳に達するともいわれる。ガラパゴスゾウガメといっても数種類の総称で、甲羅の形(鞍型やドーム型)などで分類されている, ビーチでくつろぐガラパゴスアシカ。オスは数頭~20頭ほどのハーレムを形成する一方で、ひとり者のオスが集まるコロニーも存在する。IUCNレッドリスト絶滅危惧種, 荒涼としたバルトロメ島の溶岩地形。30万年ほど前に島が形成され、溶岩が流れて固まった様子がそのまま封印されている (C) Boberger, ガラパゴスリクイグアナ。もともとウミイグアナと同種だったが、環境に適応して種が分化した。ウミイグアナより大きく歯も発達しているが、爪は小さく走りに適している。IUCNレッドリスト危急種, 1971年に発見された最後のピンタゾウガメ、ロンサム・ジョージ(孤独のジョージ)。首の上が大きく盛り上がった鞍型のゾウガメで、首を上げてサボテンを食べるためにこのように進化した。2012年に死亡し、ピンタゾウガメは絶滅した (C) Arturo de Frias Marques, サンタ・フェ島のガラパゴスウチワサボテン。イグアナやゾウガメの好物で、もともと地上に這うように生育していたが、食べられないよう樹木のように進化したと考えられている (C) Joanne Goldby, 標高114メートルほどの山頂から見渡したバルトロメ島の絶景。中央右の角のような岩がピナクル・ロック。勢いよく噴出したマグマがそのまま冷えて固まったものだ (C) Pete, ガラパゴスペンギン。南アフリカのマゼランペンギンの近縁で、北半球、あるいは赤道直下で見られる唯一のペンギンとして知られる。IUCNレッドリスト絶滅危惧種, サン・クリストバル島のキッカー・ロック。別名レオン・ドミード。波に侵食された高さ153メートルの断崖で、周辺は諸島随一のスノーケリング&ダイビング・ポイントとして知られている, 赤い喉袋を膨らませてメスにアピールするアメリカグンカンドリのオス。ダーウィンは同じ環境でも雌雄で特徴が異なる種がいることから、繁殖競争を勝ち抜くために性をアピールする方向に進化が進む「性淘汰説」も唱えていた, 海と溶岩とサボテンで構成される非日常的な景観。群生しているガラパゴスウチワサボテンは最大で高さ12メートルほどまで成長する, ガラパゴスアオアシカツオドリ。求愛行動がユニークで、写真のように片足を交互に上げてステップを踏み、メスの周囲をダンスして回る, アメリカグンカンドリの親子。膨らんではいないが喉袋が確認できる。諸島には亜種のオオグンカンドリも生息しているが区別は難しい, ハンマーヘッドシャーク。ガラパゴス諸島の海にはマンタやジンベエザメなど大型魚類の魚影も濃く、人気のダイビング・スポットとなっている, 溶岩のような養分の少ない土地で生育することからその名がついたガラパゴスヨウガンサボテン。日本でも園芸種として人気が高い. チャールズ・ダーウィンについて見ていきます。進化論の父と呼ばれる歴史的な大自然科学者の人生を、ダイジェストで追っていきましょう。, 「生物は長い年月をかけて徐々に進化して現在の姿に至った」とする進化論は、現代の自然科学の発展へ大きく寄与してきました。, ダーウィンの自然科学界の歴史における功績はとても偉大であり、人間の自然に対する理解を深化させました。, この記事では、そのチャールズ・ダーウィンの人生について、歴史の流れを追いながら見ていきたいと思います。, まずは、チャールズ・ダーウィンのプロフィールを簡単に確認することから始めていきましょう。, チャールズ・ダーウィン、全名チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809年2月12日~1882年4月19日)とは、イギリス出身の自然科学者であり、「進化論」を提唱し、生物進化のメカニズムの解明と過去の生物の進化史を研究する学問「進化学」において、最も権威ある科学者として知られる歴史的人物。, という概念を生み出し、この自然選択のプロセスによって長い時間をかけながら生物が進化してきたことを明らかにしました。, そして、ダーウィンの進化論はその後、少しずつ修正が加えられながらも自然界における生物の多様性を説明する基本的理論となり、現代生物学の基盤となっていきました。, そんな彼の生物の進化に関する論文は、発表当時から現在まで絶えず激しい議論の的となっていますが、一方で、ダーウィン自身は勤勉で静かな一生を送ったことで知られます。, ちなみに、ダーウィンが進化論の発想に行き着くきっかけとなったのは、若き学者であった頃、イギリス海軍に同行して世界中を巡る航海の旅に出た経験でした。, ガラパゴス諸島などの遠隔地を訪れたダーウィンは、数多くの珍しい動物や植物を目にします。, そこから「生命はいったいどこから来たのか?」という疑問を抱き、その研究に人生と生涯を捧げることとなったのです。, ダーウィンが発表した名著『種の起源』は、当時の科学界に大きなショックを与えたと同時に、後世に大きく発展した現代自然科学に対して計り知れない影響を与えました。, チャールズ・ダーウィンは、イングランドのシュロップシャー州にあるシュールズベリーで、1809年2月12日に生まれました。, しかし、ダーウィンの母は彼が8歳の時に亡くなったため、その後、ダーウィンは実質的に姉達によって育てられたと伝えられます。, ダーウィンは若い頃、あまり頭が良い生徒とは言えませんでしたが、医者になる勉強をするためにスコットランドのエディンバラ大学に進学。, しかし、ダーウィンは医学の勉強をするのを嫌ったため(血が苦手だったのではないかと言われる)、ケンブリッジ大学に転校。, そこで彼は、英国国教会の牧師になるための勉強を始め、1831年に学士号を取得しましたが、この時にはすでに植物学に大きな興味を寄せるようになっていたようです。, ケンブリッジ大学卒業後、大学時代の恩師の勧めにより、ダーウィンはイギリス海軍の測量船ビーグル号の2度目の航海に同行することを決意。, そして、1831年の12月に出発したビーグル号がイギリスに戻ってきたのは、約5年後の1836年10月のことでした。, この旅でダーウィンが海上にて過ごした日数は500日を超え、また南アメリカなど陸上で過ごした日数は合計で1200日以上にも上ります。, 彼は植物や動物だけでなく化石や地形なども観察し、何十冊にものぼるノートにメモを残しました。, そして、ビーグル号の航海においてダーウィンは、世界中の動植物を研究することが出来ただけでなく、同時に、様々な標本をイングランドに持ち帰ることにも成功したのです。, さらにチャールズ・ライエルやトーマス・マルサスといった科学者による、当時としては最先端の研究論文を読み、進化論の元となる考えを少しずつ形成していきました。, ちなみに、ビーグル号におけるダーウィンの立ち位置は独特なものだったようで、このことはまた、ダーウィンが航海に出るためには重要な意味を持ったと考えられます。, 実はビーグル号の元船長は、最初の航海において精神を病んでしまった経験を持ち、その理由が「長い航海の間、知的な会話をする相手が1人もいなかったため」であるとされました。, そこでイギリス海軍は、ダーウィンのように知的な会話が出来る若者を、船長の会話相手として乗船させることにしたのです。, さらに博物学に関心のあるダーウィンは、様々な発見を記録することも出来るため、「一石二鳥である」と考えられたのも、ダーウィンの乗船が許可された理由の一つだと言えるでしょう。, とにかく、このような内部事情によってダーウィンはビーグル号に乗って航海へ出ることが出来、結果として、人類の自然に対する理解を飛躍的に高める発見をしていくことになったのです。, ビーグル号の旅が、ダーウィンの人生において非常に重要な出来事であったのはもちろん確かです。, 例えば1838年、ダーウィンはイギリスの経済学者トーマス・マルサスが1798年に発表したエッセイ「人口論」を読みます。, マルサスは人口過剰の法則を説き、また、貧困などの困難な状況でも生き残る人が少数なりとも必ず存在することを指摘。, この考えに影響を受けたダーウィンは、その後、20年間にわたってデータやサンプルを集め、最終的に自然選択説を確立していきました。, 1836年にイングランドへ戻ったダーウィンは、長きに渡る研究と標本作成の生活を開始、そして、それから3年後の1839年に従妹のエマ・ウェッジウッドと結婚します。, 結婚したのと同じ年、つまりイギリスに帰国してから3年後にダーウィンは、航海時の記録をまとめた著書を出版(今日この本は『ビーグル号航海記』の名で知られる)。, 科学者ダーウィンの旅の記録を綴ったこの本は面白い内容をたくさん含んでおり、発売当時から大きな人気を博したため、何度も増刷されました。, また、ダーウィンは5巻にも上る『ビーグル号航海の動物学(Zoology of the Voyage of the Beagle)』の編集にも参加。, この本の執筆には何人もの科学者が参加していた中で、ダーウィン自身は動物の分布と化石から読み取れる地理に関する章を担当しました。, このような実績などもあり、1840年代と50年代を通じてダーウィンの博物学者や地理学者としての名声は高まりますが、これはまだ進化や自然選択の概念を公に発表する前のことでした。, 一方で、当初、ダーウィンは自らの発見や進化に関する考えを公にすることを渋ったと言われています。, そのため、イングランドに戻ってから20年近く経過した1854年になって初めて、ダーウィンはイギリスで生物学者として活動していたアルフレッド・ラッセル・ウォレスと協力し、進化や自然選択のアイディアを発表したのです。, そして1858年、二人はこの説に関する発表を行うためにロンドン・リンネ協会の会合に招待されます。, しかし、ダーウィンは息子の一人が危篤状態だったために欠席(息子は残念ながらその後なくなってしまいます)。, ウォレスも参加できなかったため、研究に関与していなかった人物が代理でプレゼンを行い、この発表は科学界に大きな衝撃を与えることとなりました。, ちなみに、仲の良い友人などから度々本の執筆と出版を迫られていたこと、それに加えて最終的にはウォレスが発表した似たような内容のエッセイに背中を押され、1850年代後半からダーウィンは渋々、自らの考えを記した本を書き始めました。, 1859年11月、歴史に永遠に名を残すこととなったダーウィンの名著であり、現代科学へ大きな影響を与えることになった『種の起源』がついに出版。, そんな中でダーウィンは、自身も宗教者になるための勉強をした宗教心の強い人物だったこともあり、この本が特に信仰心の強い人から批判され、激しい論争の的になるだろうことは初めから理解していたようです。, そのため初版では、ダーウィンは人間の進化には触れず、「すべての生物に共通の祖先がいるのではないか?」という仮説を提示しただけでした。, そして、12年後に発表した『人間の由来』で初めて、ダーウィンは人間の進化についての自説を述べたのです。, ダーウィンの論説は発表直後に有名になり、世界中の科学者によって取り上げられることとなりました。, また科学界だけでなく、宗教界、そして経済学や社会学の分野にまで影響を及ぼしたのです。, 実は、植物や動物が環境に適応し、時の経過とともに変化・発達することを説いたのは、ダーウィンが最初ではありません。, しかし、ダーウィンの仮説ほど科学的なものはなく、また多くの人に分かりやすい形で提示されたのも初めてでした。, また、宗教界や科学界がダーウィンの著作をめぐって白熱した議論を展開する中、ダーウィン自身はこれに直接関与することはほとんどなく、イングランドの田舎で静かに暮らしました。, その後、ダーウィンは世界中の科学者から尊敬を集めるようになり、晩年には「イギリスの英雄」と称えられたほどです。, そんなダーウィンでしたが、晩年には体が不自由になり、また、1882年になると年初から心臓の痛みを訴えるようになります。, そして1882年4月19日、チャールズ・ダーウィンは自宅で亡くなりました。享年73歳でした。, 彼の死後、名誉のあることとして、ダーウィンの遺体はロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬されました。, 進化論を唱え、現代自然科学に大きな足跡を残した偉大な科学者「チャールズ・ダーウィン」の人生について、ダイジェストでまとめてきました。, 偉大な科学者として、また、人類の英知を発展させた人物として、ダーウィンはとても重要な歴史的重要人物の一人です。, 当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。 さらに詳しくは下のホームボタンをクリックしてください。. ダーウィンのプロフィール. チャールズ・ダーウィンは1809年2月12日、イングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーで誕生しました。 ダーウィンは医師で投資家の父・ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ダーウィンの次男として誕生します。 裕福な家庭から誕生したダーウィンは幼いころから、植物、貝殻、鉱物などの収集を行い、博物学的趣味を好んでいました。 1818年、シュルーズベリーの寄宿舎校で教育を受けると、16歳となったダーウィンは父の医業の補佐のためエディンバラ大学で医学と地質学を学びはじめま … それに対して進化論では、「ヒトはサルから進化した」と唱えたからだ。 ダーウィンの種の起源に関連する情報 チャールズ・ロバート・ダーウィン. 世界でもここにしかいないというイグアナやゾウガメ、アシカたちと出会うことができる海洋生物の楽園、ガラパゴス諸島。この諸島はダーウィンが進化論を思いつくきっかけを与え、はじめて登録された世界遺産のひとつでもあり、「ガラパゴス化」などといった言葉の元にもなった。 1809年2月12日。 イングランド、シュロップシャー、シュルズベリーの町外れの丘にある家で、チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809~1882)は生まれた。, 名前はチャールズとロバートの二つだが、ダーウィン自身は、自身に関して、生涯にわたり、チャールズ・ダーウィンとしか乗らなかったという。, ダーウィンの父ロバートも、父方の祖父エラズマスも医師だった。 エラズマスはまた、高名な詩人でもあったという。  ダーウィンの母スザンナと、母方の祖父ジョサイア・ウェジウッドは、陶磁器(とうじき)メーカー、ウェジウッド社の創業者。, つまり両親はともに裕福な人たちで、チャールズ・ダーウィン自身は、おぼっちゃまというやつだった。, また、ロバート・ダーウィンも、エラズマス・ダーウィンも、王立協会所属の科学者でもあった。 特にエラズマスは進化論支持者であり、チャールズに 多少なりとも影響を与えた可能性は高い。 「進化論」創造論を最も矛盾させた生物学理論 エラズマスの進化論は生物のみを扱った場合もあるが、この宇宙という存在自体が段々と今のような世界に変わっていくというような、より壮大な宇宙進化論的思想を持っていた節もあるという。 「ブラックホール」時間と空間の限界。最も観測不可能な天体の謎, チャールズ・ダーウィンは幼い頃、9歳年上の姉キャロラインに、勉強を見てもらった。 彼はやんちゃで、妹のキャサリンに比べ、姉の手をずいぶん焼かせたという。, 母スザンナの家系であるウェジウッド家の伝統だったこともあり、キリスト教のユニテリアン主義の教会への日曜礼拝も幼きダーウィンの日課であった。 「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  ユニテリアン主義は、イエス・キリストを神自身とするのではなく、単に優れた宗教指導者としてのみ扱うという立場らしい。, そして1817年。 ダーウィンはユニテリアンの牧師の経営する学校に入学し、一年ほど通った。, この時期から彼は、貝殻や鉱物、コインなどいろいろな物を集めるコレクターであり、また自然の中を歩き回るのが大好きだった。  ダーウィン自身、後に語る。 「私の収集熱は明らかに生まれつきのもの」 「私は物心ついた時からナチュラリストだった」, 9歳の時にダーウィンは、シュルズベリー・スクールに入学。 彼自身は、後にこの学校で過ごした年月は最も無駄な時間であったと述べている。 シュルズベリー・スクールでは、古典と古代の歴史ばかりで、それらはダーウィンにとって、あまり意味のあるものではなかったようだ。, しかし楽しいこともあった。 同じ学校に通う兄が、庭の道具小屋に実験施設を作ったのだが、ダーウィンもこの時、彼に化学実験を教わった。 科学実験の重要性を、この時に彼は認識したのだという。, 1825年のこと。 ダーウィンはシュルズベリー・スクールを、ちゃんと卒業せずに辞めたようである。 そして数ヶ月経って、エディンバラの医学校に入学した。, ダーウィンは、父親の手伝いをしていた時に「見込みがある」とよく褒められたそうで、いつからか自分も医者になろうと、当たり前のように考えていた。 しかしいざ医学校で医学の講義を受けてみると、それがまったく退屈なことに衝撃を受けた。, それから王立病院で、外科手術の見学をした時、麻酔もろくになかった時代なので当然であるのだが、恐ろしい患者の断末魔に彼は震えた。 「麻酔手術を変えた人体実験」笑気ガス、エーテル、植物エキス  そのことがきっかけかはわからないが、人体解剖の実習を避けたことは、彼自身が「人生で最大の失敗のひとつ」と後に述べる。, エディンバラには、ドイツのアブラハム・ゴットロープ・ウェルナー(1749~1817)、フランスのジョルジュ・キュヴィエ(1769~1832)の研究をイギリスに紹介したロバート・ジェイムソン(1774~1854)がいた。, ジェイムソンの講義は、恐ろしいほどに退屈と評判であり、ダーウィンもそう考えていた節がある。 しかし、地質学の授業内容としては世界最高水準と評価されていて、 ダーウィン始め、地質学に興味ある受講者は後を絶えなかったという。, 他に、唯一楽しい講義を行っていたらしい、化学者のトーマス・チャールズ・ホープ(1766~1844)も、ダーウィンによき影響を与えたようである。, ダーウィンは、『プリニウス学会』という、 自然科学や考古学 を自主的に勉強する 学生主体の組織に、 1826年11月から所属し、エディンバラを去るまで、たいていの会合に出席した。, そのプリニウス学会の指導者的立場にあった動物学者、ロバート・エドモンド・グラント(1793~1874)は、 進化論者であり、エディンバラでは、ダーウィンに最も大きな影響を与えた人物とも言われている。, ダーウィンは、グラントに指導されながら、コケムシについて研究した。 グラントは、コケムシは下等な生物かつ、現在のさまざまな生物の共通先祖かもしれないと考えていた。 そしてダーウィンが、あるコケムシの幼体に鞭毛(べんもう)(flagellum)と呼ばれる毛状の細胞小器官が見られるのを発見した時、グラントはそれを、 自分が探し求めていた、先祖型の共通基本要素なのかもしれないと考える。  1827年3月。 グラントはウェルナー学会で、ダーウィン自身もプリニウス学会で、その発見を公表した。 ダーウィンにとっては初めての研究発表だった。, ダーウィンはプリニウス学会で、グラントから、自分の祖父エラズマスがいかに偉大な人物かを熱心に聞かされた。 エラズマス・ダーウィンは紛れもなく、イギリスにおける初期の進化論者の一人なのだ。, 一方で、学会の会員の一人であった、ウィリアム・アレクサンダー・フランシス・ブラウン(1805~1885)が引き起こした騒動も、後のダーウィンに強い影響を与えたと考えられている。 ブラウンは、「人の心というものは実在のものというよりも、単に脳の機能の一つ」という仮説を提唱し、凄まじく非難されてしまったのである。 「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で  ダーウィンは、革命的な理論に対する、世間の風当たりの強さを強く学んだのだった。, 問題はダーウィンが、医学の道を捨てたことであった。 それまでのダーウィン一族の遺産があるので、 たとえ生涯全く働かなくても、ダーウィンが生きていくことはできただろう。 問題は世間体である。, 父ロバートは、趣味であった狩猟ぐらいしか脳がないような息子に、残された将来は、教会の牧師になることくらいだろうと悟った。 ダーウィン自身もそう考え、聖書や神学書を読みふけったという。, 聖職者になるための最低限の資格として、オックスフォード大学かケンブリッジ大学を卒業している必要があった。 そして1828年1月。 ダーウィンはケンブリッジ大学へと入学した。  ちなみに、入学許可のおりた時期的に、父親の裏工作があったのではないか、と考えられている。, 後のダーウィンにとって、最も楽しい思い出はケンブリッジ大学で過ごした3年間だったという。, 当時のケンブリッジ大学は、大学の講義に参加する必要がなく、卒業試験に合格さえすればよいという方針であった。 そのためにダーウィンは、友人たちと毎日のように遊びまくった。 そうである。  ダーウィンは酒が好きで、歌が好きで、カードゲームが好きだった。 もちろん趣味である狩猟も存分に楽しんだ。, しかしダーウィンが何よりも熱中したのは、甲虫採集であったという。 「昆虫」最強の生物。最初の飛行動物  こんなエピソードもある。 ケンブリッジ大学は数学を結構重視していたようで、ダーウィンもせっかくだから苦手科目である数学を克服しようと、1828年の夏の数学勉強会に参加した。 しかしその合宿の土地が自然に恵まれた環境であったため、ダーウィンは昆虫採集にばかり熱中し、まったく勉強に身が入らなかった。, ケンブリッジの植物学の教授であったジョン・スティーブンス・ヘンズロー(1796~1861)はダーウィンにとって、自身に最も強い影響を与えた人物であった。 偉大なナチュラリストのチャールズ・ダーウィンは、教育者ヘンズローの成果という人までいるくらいである。, ヘンズローは、学生たちに自分たち自身の目で植物を観察することを教え、また自宅でよく、自然史に関心を持つ同僚や学生たちのための座談会を開いたりしていた。, ケンブリッジの最後の年くらいに ダーウィンはドイツのナチュラリスト、フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769~1859)の本に、影響を受けて、北西アフリカ沖のカナリア諸島にいつか行きたいと考えるようになる。  話を聞いたヘンズローは、 それなら地質学を学ぶのがよいとダーウィンにアドバイスし、地質学教授のアダム・セジウィック(1785~1873)の教えを受けれるように取り計らってあげた。, また、南アメリカの調査に行く『ビーグル号』という船の艦長、ロバート・フィッツロイ(1805~1865)にダーウィンを紹介してくれのは、ヘンズローの友人の数学者ジョージ・ピーコック(1791~1858)だったとされている。, ダーウィンの時代のイギリスの海軍艦長は、乗組員と個人的に接触してはならないということになっていた。 そこで、精神状態がおかしくならないように、個人的な話し相手の友人を船に乗せるというのは珍しいことではなかった  それでフィッツロイ艦長の話し相手としてピーコックが推薦したのが、ダーウィンというわけだった。, ビーグル号の目的は学術的な調査であったからか、数百冊の本が収められた書庫があり、乗組員はそれらを自由に読めた。, ダーウィンの仕事はほとんど、フィッツロイと食事を共にすることのみだった。 フィッツロイはどうもおこりっぽい性格で、二人はしょっちゅう口論になったようだが、あまり深刻な事態に発展することはなかった。, 1832年1月6日。 カナリア諸島のテネリフェ、サンタ・クルスの港にビーグル号はやってきた。 テネリフェは、フンボルトの本にも出てきた島で、イングランドでコレラが流行していることを理由に、上陸を拒否された時、ダーウィンはひどくがっかりしたとされている。, しかしもちろん、一度たりとも陸に足を踏み入れる機会がなかったわけではない。 どの島でも、ダーウィンは誰よりも活発に活動したという。 初めての熱帯の植物や動物に、彼はいつでも大興奮だった。 ただ、船にはいつまでもなれず、最後まで船酔いに苦しんでいたそうである。, ビーグル号が南アメリカ大陸を離れてガラパゴス諸島に向かったのは、1835年9月のこと。, ナーボロー、アルベマール、ジェームズ、インディファティガブル、チャタムの五つの島を中心とした地域で、 南アメリカ大陸からは1000キロほど離れている。, ダーウィンはこれらの火山島で、特異的な動植物に次々と出会った。 「火山とは何か」噴火の仕組み。恐ろしき水蒸気爆発 ダーウィンは島に入る前から、諸島を構成する各島によって、同じ種類のカメでも、形が異なったりする場合があると聞いていたが、信用していなかったという。, また、ダーウィンはガラパゴス諸島にて進化論を思いついたという説もあるが、これに関しては何の証拠も無いそうである。 ダーウィンが自身の航海日誌を基礎として書いた、『ビーグル号航記』という本があるのだが、 これの第二版が出る頃に、進化論に関する話を盛り込んだために、そういう話が広まったそうなのだ。, とにもかくにも、ガラパゴス諸島での測量を終えると、ビーグル号はイギリスへと帰還した。, ビーグル号航海中は、主に生物学者としより、地質学者としての調査にダーウィンは尽力していた。 また、航海中、ヘンズローやセジウィックが科学者仲間にダーウィンを紹介していたこともあり、イギリスに帰還する頃には、ダーウィンは地質学者として広く認められるようになっていた。, ダーウィンの地質調査の報告の手紙を受けとる度に、セジウィックは、その成果をロンドン地質学会で発表した。 南アメリカの地質についてはあまり知られていなかったこともあり、その報告に多くの学者たちが注目したという。, そして、どんな地質学者よりも喜んだのが、ダーウィンの父ロバートだった。 怠け者の落第生だと思っていた息子が、イギリス中の優れた学者たちに注目されるようになっていたのだ。 彼は、息子の報告が紹介された雑誌の記事を、とにかく友人たちに配布しまくったという。  ちなみに、ダーウィンを教会の牧師にしようと考えていたこの父親であるが、彼自身が世を去るまで、明確に牧師になる道が否定されることは一応はなかったようである。, 地質学者の中でも、ダーウィンに特に強い影響を与えたのが、チャールズ・ライエル(1797~1875)だった。 彼は、『斉一説(さいいつせつ)(uniformitarianism)』というのを広めた一人とされている。  これは、大地というものにかかる法則は変わらないから、今起きている地質学的現象は、過去にも起きた。 あるいは、過去の何かの現象に由来している。 繋がっているというような考え方である。, 斉一説は、今存在している生物も、あくまで今の環境に適応した生物とする考えでもあり、進化論の発想に繋がりかねない。 ライエル自身は、進化論を信じることは生涯なかったようだが、ダーウィンの進化論思想は、ライエルの本にかなりの影響を受けたものだったと言われる。, ダーウィンが進化論を考え出した過程については、主に彼が残した日記などが手がかりになっている。  1837年には、生物の進化についての考察をノートに記載しているようだから、少なくてもこの時期には、彼は進化論に傾きだしていた可能性が高い。, ダーウィンは、「ある種の生物が別の生物に変化するというのなら、それは跳躍的(かなり一気に)に起こるに違いない」と書いているという。, 一つほぼ間違いないことは、ダーウィンはもともと進化論者でなかったということである。 彼は転向組だ。, だから、 1836年から、ダーウィンが親しくなったリチャード・オーウェン(1804~1892)の「従来の研究と、先見的な研究を結びつける、調和がとれた理論を目指す」という思想は、ダーウィンを先見的な進化論へ誘うのに、ちょうどよかったろうと考えられている。, ダーウィンの進化論研究は、彼という人に影響を与えてきた、多くの人たちの成果でもあった。  ビーグル号で、彼の自然学研究を好きにさせてやったフィッツロイ。 彼を地質学研究へと誘ったヘンズローやセジウィック。 ダーウィンの祖父こそ、進化論研究の偉大な開祖の一人だと褒め称え、強い印象を残したグラント。 そして何よりも、その尊敬していた祖父こそが進化論支持者であったという事実が、秘密裏にその研究をしていたダーウィンを支えたろうとも言われている。, ダーウィン以前にも進化論はあったが、彼の進化論は、以前のものと決定的に違う点がいくつかあった。 特に重要な一つが、ダーウィンの進化論は、決定的に『枝分かれ的進化論』であったことである。, ダーウィン以前の進化論は、ある種の共通先祖が枝分かれ的に進化したとよりも、別々の祖先から直線的に進化してきたというような『直線的進化論』のパターンが主流であった。  局所的な枝分かれ進化をするという考え方は古くからある。 基本的に生物は、無生物から突然現れることがあり、そしてその現れた生物が何らかの生物へと進化していくということが、地球上で何度も起こってきたという考え方である。, つまり、一個の単細胞生物が無脊椎動物と脊椎動物が分岐して、さらに脊椎動物が魚、両生類、爬虫類、哺乳類になるというような進化シナリオは、ダーウィンが完全に確立したわけである。 「魚類」進化合戦を勝ち抜いた脊椎動物の始祖様  どこまで天才で、どこまで偶然だったのだろうか。 現在では少なくとも、確認できるほぼ全ての生命体が、ある一つの共通祖先から進化した存在と考えられている。 それは、ダーウィンの時代には明らかでなかった、細胞小器官の類似性などが証拠とされる。  少なくともダーウィンが、枝分かれ的進化論という考えに至ることができたのは、彼が他の進化論者と違って、化石生物の変異というよりも、生物の地理学的な形態分岐を参考にしたものだからと考えられている。, ダーウィンは1839年に、幼馴染だったエマ・ウェジウッドと結婚した。 彼女はかなり熱心なキリスト教信者であったが、キリスト教からどんどん離れていくダーウィンを止めることはできなかったようである。, 妻を除くと、ダーウィンが 最初に進化論を研究していることを打ち明けた人物は、学者としてのダーウィンを尊敬していた、植物学者のジョセフ・ダルトン・フッカー(1817~1911)であったとされている。, ダーウィンは自身が進化論が完成に近づくにつれて、それに関して議論をする相手がほしくなったのだとされている。 フッカーは、実際によき議論相手となったようで、彼はほとんど種の起源出版の時まで、進化論の否定派だったようだが、ダーウィンの研究そのものに対しては、かなり協力的だったという。, 1851年4月。 娘の一人アニーの病死は、ダーウィンを完全にキリスト教から決別させたという説もあるほど、彼に衝撃を与えたようである。  しかしダーウィンの信仰心はどうであれ、彼はなおも進化論研究を続けた。, 動物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825~1895)と出会ったのは、1854年のこととされている。 面白いのが、彼がダーウィンと出会った時はまだ、彼は反進化論者であり、進化論を唱えた本に関して、猛烈な批判の文章を書いたりしていたことであろう。 そしてどうも、「(ハクスリーの批判文章について)さすがに言いすぎではないか。まあそう思うのは、私の立場的な関係もあるのかもしれないが」というような手紙を、ダーウィンはハクスリーに送り、自分が進化論者であると打ち明けたらしい。, アルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823~1913)は、種の起源の発表以前からのダーウィンの本の影響も受けて、独自に、同じような進化論、いわゆる『自然選択説』にたどり着いたということで有名である。, 1856年。 ウォレスはダーウィンに手紙を書き、ダーウィンは、明らかにこの若者が、自分と同じような学説に至りつつあると気づく。, もっとも、ウォレスの発表した論文は、実質的には単に枝分かれ的進化の可能性を説いただけのものであって、ダーウィンよりも十数年ほど遅れていたという意見もある。  ウォレス自身は、ダーウィンの進化論を知った後は、その熱烈な支持者の一人となった。, 実際はどうであれ、長年、自分が研究してきた学説の功績が、他の者に取られてしまうのではないかという焦りがダーウィンを襲う。, ただウォレス自身、ダーウィンを崇拝していたこと、それにダーウィンが進化論を熱心に研究していたことを知っていたフッカーやライエルの学会への働きかけもあり、ウォレスの論文は、ダーウィンの共同作扱いとされた。, しかしその論文の内容は、ダーウィンが研究してきたすべてのことを説明するには、まったく不十分なものではあった。, ダーウィンは、「自然選択」という、自分の研究成果をすべて詰め込んだような大著を計画していたのだが、ウォレスとの一件で、 とにかくさっさと発表することの重要性に気づいたためか、自然選択の内容を短くまとめた一冊をとりあえず発表することにする。, それこそが、1859年11月24日に出版された、おそらくはダーウィンの著作の中で最も有名であろう『種の起源(On the Origin of Species)』だった。, 種の起源は、(その時その場所の環境に、最も適用できる進化をした者が生き残っていく)淘汰による自然選択という仕組みによって、科学的に進化論を論じ、非常に説得力があった。 しかしだからこそ、注目を集めすぎ、批判する者たちも多くいた。, おそらくはかつてのブラウンの悲劇などから、あまりひどい論争を好まなかったダーウィンに代わり、反進化論者と戦いを繰り広げた支持者たちの中心となったのが、進化論者に転向したフッカーとハクスリーだったとされている。  彼らが、司教のサミュエル・ウィルバーフォースと繰り広げた1860年のオックスフォード論争は、あまりにも有名であるが、ちょっと伝説になりすぎて真実がはっきりしない。, ただ、「人間が猿から進化したなんて信じられるか」というウィルバーフォースに対し、ハクスリーは「お前みたいなわからず屋が先祖というよりはマシだ」と返すようなやりとりがあったのだという。  しかし、偉い大司教に対し、 全く臆せず進化論を説くハクスリーの勇気は、ダーウィン自身を含め、多くの進化論支持者たちを奮い立たせたとされる。 彼が、「ダーウィンの番犬」と称される理由である。, また、植物学の幅広い生態的知識を根拠としたフッカーの説得は、多くの人々の考えを変えさせたようだ。, 味方になってくれたのは、ほとんどがフッカー、ハクスリー、ウォレスといった、ダーウィンの後輩たちで、恩師であるヘンズローもセジウィックもライエルも、進化論には否定的だった。, ダーウィン自身も、そうなるだろうことは予測していた。 ダーウィン信者はよく、「ダーウィン以来」というような言い方を好む。 これはかなり言い得て妙なのかもしれない。, 1882年4月19日。 ダーウィンは世を去った。  彼の最後の著作は1881年の「ミミズと土」という、ミミズと土壌形成などに関して論じた本。 世紀のナチュラリストの本として、いかにもな感じである。, サイエンスとオカルトが大好きな、平民階級の読書スキーです このブログは僕が憧れる世界、歴史上の偉大な科学者たちやその研究、魔術師たちの風変わりな物語のエミュレーターです ブログに関するより詳しい説明はコチラ 創作が趣味です わりとマイペースな更新ですが、「小説家になろう」に小説投稿してます SFかSF要素の強いファンタジーとかが多いです.

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