ヴェネツィア 歴史

フランク王国に抵抗したヴェネツィアも、より自分たちの存在を強くアピールするために、ある手段を取りました。 "Venice Misappropriated. 中世(500~1500年ごろ)はヴェネツィア共和国の首都となり、一国として地中海でも大きな存在でした。 Drechsler, Wolfgang (2002). 世界史においても何度か登場するペストの大流行ですが、14世紀にヨーロッパで発生したものはすさまじいものでした。 中欧や東欧のスラヴ人やイスラム勢力を駆逐し、アドリア海の制海権を手にしたのです。 Revised edition of "Venice: a Cultural and Literary Companion" (2001). そのため、水上バスや水上タクシー、フェリーなどでみんなが移動します。 それらはすべて、ヴェネツィアの美しさにあやかったものなんです。, さて、ヴェネツィアの最大の特徴と言えば、運河ではないでしょうか。 そのため、ヴェネツィアの人々は結束して国を守らなくてはという意識に目覚めたのです。, 9世紀になると、人々は元々住んでいた島から現在のヴェネツィアがあるヴェネツィア島に大移動しました。 もちろんヴェネツィアも守護聖人を求めます。, 聖マルコとは、新約聖書の「マルコによる福音書」を記した人物とされています。 これらは現在にも伝わっています。, そしてこれ以後に断続的に起こった周辺諸国との戦争が、さらにヴェネツィアの国力を弱めていったのです。, さらに、1629年から翌年にかけて、恐怖の伝染病・ペストが流行しました。 アドリア海に面し、向こう側にはクロアチアやアルバニアなど東欧への入口となる国々があるバルカン半島があります。 儀式の名前は「海との結婚」。 その重要なルートとなったのが、シルクロードです。 なぜ運河の街となったのかというと、ヴェネツィアがヴェネタ潟という湿地帯の上にできたからなのです。 6,000~7,000年前に氷河が解けて海になり、そこに土砂が溜まってできあがったそうですよ。 言語体系にまで影響を及ぼすほどの伝染病、もし現在に起きたらと思うとぞっとしますよね。, ちなみに、日本では1896年に中国人によって持ち込まれ、初めての感染者が発見されました。, ペストの流行でさらに弱ったヴェネツィアに、オスマン帝国は追い打ちをかけるかのように侵略を続けました。 それが十字軍でした。 ヴェネツィアの歴史 地中海を支配した海洋都市, 東方貿易で繁栄し、「アドリア海の女王」と讃えられたヴェネツィア。街の起こりと発展、共和国としての1000年もの独立など、その歴史は異彩を放つ。, イタリアの諸都市のほとんどが、紀元前にその歴史をさかのぼるのに比べ、ヴェネツィアの起源はかなり遅い。「ラグーナ」と呼ばれる潟が誕生したのは約6000年も前のことだが、長らく人が住みつくことはなかった。集落ができ始めたのは、6世紀末とされる。異民族の侵略から逃れるため、本土の住人がラグーナの島々に杭を立て、その上に家を造って住み始めたという。7〜8世紀頃にはリド島のマラモッコ地区に街を形成。この時期に「ドージェ(総督)」を中心とするヴェネツィア独特の政体が生まれ、共和国の基礎がつくられた。 9世紀、街の中心は本島のリアルトに移る。当時、自治を確立するためには、しかるべき守護聖人を得て、宗教的な独立を守る必要があった。そこで828年に、2人のヴェネツィア商人が福音史家・聖マルコの遺骸をエジプトのアレキサンドリアから運搬。聖人を祀るためにサン・マルコ寺院が創建された。聖マルコの象徴とされる「有翼の獅子」像が誕生したのもこれと同じ時期で、ヴェネツィアの紋章として街の各所に配された。 ヴェネツィアの産業は、当初は漁業が主体だったが、街が発展するにつれて商取引が行なわれるようになる。10世紀には、ヨーロッパとオリエント世界を結ぶアドリア海の付け根に位置する地の利を生かし、東方貿易の版図を急速に拡大した。, 11世紀には、聖地エルサレムを奪回するための十字軍遠征が始まる。1095年の第一次十字軍でヴェネツィアは船と食糧などを用立て、その後の十字軍もこの街から出発した。これを機にヴェネツィアは地中海の要所に商館を設け、地中海での勢力を拡大。1202〜04年の第四次十字軍では、ドージェのエンリコ・ダンドロが遠征軍を指揮し、地中海の要衝であるコンスタンティノープルを陥落。これにより、ヴェネツィア共和国は地中海の大半を支配下に置き、黒海の覇権をも握った。 『東方見聞録』で知られるヴェネツィア生まれの商人、マルコ・ポーロが海路と陸路で中国まで達したのはまさにこの時代で、その旅は1270〜95年の長きにわたった。 1348〜49年にはペストが猛威をふるい、ヴェネツィアは人口の半分を失う。しかし、共和国の威信と勢力は衰えなかった。13世紀半ばからは、同じ海洋共和国であるジェノヴァとの抗争も続いていたが、1380年のキオッジャの戦いでヴェネツィア軍が圧勝する。翌1381年にトリノで講和条約が結ばれ、ヴェネツィア共和国はアドリア海と地中海の覇権を手にし、東方貿易を独占した。ヨーロッパと東方との交易品のすべてがヴェネツィアを経由するようになり、商取引による莫大な富がもたらされることになった。, 14世紀後半〜15世紀に、ヴェネツィアは経済、軍事、文化、芸術のすべてにおいて絶頂期を迎える。サン・マルコ広場周辺や大運河沿いには、ゴシック様式やルネサンス様式の華麗な宮殿や館が建てられた。東方文化の影響により、ビザンチン様式が混在・調和した建築物が多いのが特徴だ。 絵画ではヴェネツィア派と呼ばれる画家たちが、この街独特のルネサンス文化を花開かせる。ティツィアーノや、ティントレット、ヴェロネーゼらが、光と色彩を駆使した技法により数々の傑作を生み出した。 また、街の伝統工芸であるガラス細工やレースもこの時期に発達し、水の都で生み出される繊細で華麗な工芸品は、ヨーロッパ中の貴族たちの憧れとなった。, 16世紀になると、共和国の繁栄に陰りが出る。1571年のレパントの戦いでトルコ軍に勝利したものの、キプロスを失った。その後、トルコとの戦いは17世紀まで続き、ヴェネツィア経済は戦費で疲弊していく。さらに、大航海時代の到来によって新大陸とを結ぶ航路が発見され、海洋貿易の版図が激変する。こうして、ヴェネツィアの地中海での威光は衰退の一途をたどることとなった。 1630年には再びペストが大流行し、人口が大幅に減少。1669年にはトルコにクレタ島を奪われ、さらに1718年にペロポネソス半島のモレアを失い、ヴェネツィアの地中海での支配に終止符が打たれた。1797年にはナポレオンがヴェネツィアに入城、総督ルドヴィコ・マニンが無血開城を受け入れ、共和国1000年の歴史が幕を閉じた。, 18世紀末から19世紀半ばにはオーストリア、フランスの外国支配を受け、1866年に統一されたばかりのイタリア王国に併合された。共和国の終焉後、ヴェネツィアは貿易や外交の表舞台からは退いたが、1000年の歴史が生んだ建築と芸術を基盤として、祝祭的な文化都市へと変貌を遂げる。 18〜19世紀には劇場やカフェが次々にオープンし、ヨーロッパ各地から訪れる芸術家や文化人で賑わった。この街独特の「リドット」と呼ばれる社交場では、仮面で身分を隠した人々が官能的な遊びや賭け事にふけった。ヴェネツィア生まれの作曲家ヴィヴァルディはこの時代を生き、耽美なメロディのイタリア・バロック音楽を完成させる。稀代のプレイボーイ、ジャコモ・カサノヴァもこの街で生まれ、快楽と耽溺が支配する18世紀のヴェネツィアを生きた。, 観光情報を観光地ごとに紹介する雑誌スタイルの旅行ガイドブック「まっぷるマガジン」。その取材スタッフや編集者が足で集めた「遊ぶ」「食べる」「買う」「見る」「泊る」のおすすめ情報をご紹介しています。. すさまじい勢いで造船していたことがわかります。, これによってヴェネツィアの海軍は強力なものとなり、地中海を手にしようとする勢いがはっきりとしてきました。, また、貿易が盛んになるにつれて、ヴェネツィアは世界中から商人が集まるようになりました。 そして991年、弱体化を続ける東ローマ帝国からは免税の特権を得ることに成功しました。 そして海に指輪を投げて、海との結婚の儀式がとり行われるんですよ。 戦乱に乗じて追放されたり投獄されたりしたこともあったんですよ。, この後も続いた十字軍の遠征により、ヴェネツィアはさらに領地を増やしていきました。 ヨーロッパ > 何だか想像力をかき立てられませんか?, 海との結婚の儀式は、復活祭と同じ時期に行われます。 フビライ・ハンといえば元寇で日本に攻め込んできたあの行程ですね。, その時おそらくマルコ・ポーロは日本についていろいろと話を聞いたのでしょう。 当時メインとして話されていたフランス語や、聖職者が使うラテン語などの使用者が死んでしまい、結果として残ったのが、英語を主に話す人々だったのです。 湾の周辺に暮らしていたヴェネト人が、蛮族に追われ、葦の生い茂る湿地(ラグーナ:潟)に逃げ込んだことから、その歴史が始まった。 そのため、たくさんの恋人たちが訪れる縁結びスポットとなっています。, 毎年2月から3月にかけて、ヴェネツィアではカーニバルという最大級のお祭りが行われます。 これはヴェネツィアの人口の約3分の1にも達したというのですから、その勢いがすさまじいものだったことがわかります。, ペストという病気は本来ネズミに流行するものですが、ノミなどが媒介することで人へ感染するようになりました。 しかしヴェネツィアは、当時の貿易相手でもあったイスラム王朝をはばかり、最初は十字軍に参加しなかったのです。, ただ、やがて方針を転換し、十字軍支援に回ります。 それと共にお金を取り扱うことが多くなり、ここで世界初の銀行の為替業務も始まっています。 医療が発達していなかった昔は、致死率の高さから死の病として恐れられました。 方位磁石は開発され羅針盤となり、このすぐ後に訪れる大航海時代でひじょうに役立つこととなったのです。, ただ、羅針盤が開発されたことで他国も航海に乗り出し、結果としてヴェネツィアの地位を脅かすようになってしまったことは皮肉でもありますね。, ヴェネツィアが全盛を迎えたその頃、小アジアの一角にあるイスラムの国が生まれました。 ペストは人々を次々に死へと追いやり、わずか16ヶ月の間に5万人が亡くなりました。 この長さは共和国として史上最長です。 これをレバント貿易と言い、ヴェネツィアが国力を付けた最大の要因です。, 香辛料が大人気となった背景には、当時のヨーロッパの食文化の影響もありました。 そして東地中海からトルコ北側の黒海のエリアも手にし、これが結果としてマルコ・ポーロが黒海沿岸から中央アジアへ向かう足掛かりとなったのですよ。, 13世紀末にはライバルの海洋国家・ジェノヴァ共和国と戦い勝利をおさめ、15世紀後半には指折りの海軍都市国家となっていったのでした。, マルコ・ポーロという名前を聞いたことがありますか? 「黄金の国ジパング」として日本をヨーロッパに紹介したのもほかならぬ彼なんです。, 帰国した彼は、豪商として成功をおさめました。 というのも、神聖ローマ皇帝は当時の教皇・アレクサンデル3世を認めず、対立教皇を独自に立てていたためです。, そんな両者の争いの中、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と争い、やがて教皇と帝国を和解させたのでした。 各国の大使館もできて、一躍国際都市となったのでした。, ただ、このように強くなってしまったため、ヴェネツィア商人が他国の商人から恨みを買うこともあったそうです。 しかし、移住を余儀なくされたとはいっても、ヴェネツィアは当時最強に近かったフランク王国に対し抵抗を続け、結果として独立を保ったのです。 ヴェネツィアが帝国すら脅かすような力をつけていたことの証明ですよね。, 11世紀初めには、現在のクロアチアのアドリア海沿岸一帯であるダルマチアを征圧し、アドリア海を完全に自分たちのものにしました。 ルイ14世などがいたあのフランス王政の時代ですが800年ですから、1,000年も同じ統治体制が続くというのは、すごいことなんですよ。, 史上最長の共和国だったヴェネツィアがすごいということは言うまでもありませんが、その他にもヴェネツィアがとても先進的ですごかったところがあるんです。 この時はイタリア内には「イタリアの平和」と呼ばれる40年間が訪れ、芸術面ではルネサンスも最盛期を迎えて多くのすぐれた芸術作品が生み出されたのです。, しかし、オスマン帝国の圧力は徐々に強まっていきました。 キリスト教国の指導者たちの呼びかけや、一般の人々の宗教への意識の高まりが、十字軍を始めるきっかけでした。, 第1回十字軍は11世紀末に行われ、イスラム勢力を破った人々は十字軍国家なる小国家を現地につくりました。 このカナル・グランデにかかる巨大な橋「リアルト橋」は、あまりに大きいために橋の上に店がオープンしているほどなんですよ。, そして、ヴェネツィアの産業のひとつとして有名になったガラスやレース工芸は、それぞれムラーノ島とブラーノ島で今も盛んです。 破竹の快進撃でヨーロッパを制した、ナポレオンです。, ヴェネツィアもナポレオンの前にはなすすべがなく、1797年、降伏しました。 そんな時、フランスには不世出の英雄が現れました。 Martin, John Jeffries and Dennis Romano (eds). そして、イタリア共和国の一都市となって現在に至るというわけです。, ヴェネツィアが誇る世界遺産として、「ヴェネツィアとその潟」が1987年に登録されました。 それってなかなか先進的な考えだと思いませんか?, カーニバル自体の起源は11世紀頃にさかのぼり、近隣都市や宗教勢力に勝ったのを記念して始まったそうです。, サン・マルコ広場に人々が集まって踊るというもので、ヴェネツィア共和国が全盛となるにつれて派手になりましたが、国の衰えと共に、18世紀にはほぼなくなってしまいました。, しかし1979年からイタリア政府主導によって復活し、今では毎年300万人もの人出があるといいます。, 保存された街並みと共に、1,000年以上続いたヴェネツィア共和国の全盛時代を思わせるお祭りが繰り広げられる時期は、まるで夢を見ているかのように華麗です。, 今ではイタリアの一都市であるヴェネツィアが、こんなにも強く影響力のある国だったとは思いませんでした。 また、強国の間で生き延びるための最善の策である、大勢力に本気でたてつかないことを忠実に実行したのです。, そしてヴェネツィアはパレスチナにできた十字軍国家のひとつ・エルサレム王国での名目自治権を得ました。 当時、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の仲は険悪でした。 8世紀に建てられ、改修後に現在の形となりましたが、当時貿易関係にあったイスラムの建築様式も取り入れられた、優美ながら不思議な姿をしています。, 法の支配が進んだヴェネツィアでは、身分にかかわらず罪を犯した者は裁かれ、牢獄へと送られたのです。 それをよくわかっていたからこそ、ヴェネツィアはアドリア海をものにすることに全力を注いだのです。, ちょうどこの頃、ヴェネツィアでは変わった儀式が行われるようになりました。 やがて、威容を誇ったヴェネツィアの海軍も没落し、かつての栄光は見る影もなくなります。 また、海路を利用した香辛料貿易の仲介にも乗り出します。, 香辛料貿易というと、ここから少し先の時代になる大航海時代に盛んになったようなイメージがあるかもしれませんが、すでにヴェネツィアが取り組んでいたんですよ。, 香辛料、特にコショウやシナモン、ナツメグなどは気候の良い東南アジアが原産で、手に入りにくいものでした。 しかし、周りの国々はそんなことはお構いなしにと攻め込んできます。 Garrett, Martin, "Venice: a Cultural History" (2006). 紅海はアラビア半島とアフリカ大陸の間にある湾で、後にスエズ運河が造られたところですね。, そして、イスラムの商人が持ち込んだ香辛料は、トルコやシリア、エジプト付近にやって来ていたヴェネツィア商人に買い取られ、ヨーロッパへと運ばれたのでした。 こういうところはさすが商売で身を立てた国家と言えるでしょう。 両岸には様々な年代の建物が残されており、とても興味深く美しい光景が広がっています。 よく、「○○のヴェネツィア(ヴェニス)」という呼び方をされる都市がありますよね。 その長靴の履き口部分、半島の付け根付近にある港町がヴェネツィアです。 その時、罪人がため息橋を渡って牢獄へ行くのですが、美しい水の都ヴェネツィアの風景を見るのは最後になるかもしれない、とため息をついたといいます。 国土が小さいからこそ、人々は団結し、生き延びるためにあらゆる手を尽くしてきたのですね。 当時最強だったローマ帝国はすでに東西に分裂しており、ヴェネツィアは東ローマ帝国の支配下ではありましたが、その東ローマ帝国の力は弱まってきていてあてになりません。 ヴェネツィアはイタリアの北東に位置する一都市です。 ヴェネツィア(イタリア語: Venezia ( 音声ファイル) )は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 実際、街の道路はすべて水路で、自動車や自転車は走れません。 今までに得ていた免税特権などを合わせると、これでヴェネツィアは地中海東部の貿易を独占する道筋をつけたというわけです。, はじめは十字軍に消極的だったヴェネツィアですが、一度協力を始めるとそれを利用して自治権まで得てしまいました。 ヴェネツィア・カーニバルが誕生したのは、アクイレイアの総主教との抗争にヴェネツィアが勝利した1162年であると言われる。 オスマン帝国は、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻略し、ここで東ローマ帝国が滅びます。, 危機感を覚えたヴェネツィアや他の4つの大国(フィレンツェ・ミラノ・ローマ教皇・ナポリ)はイタリアのローディで協定を結び、イタリア内の戦乱を終結させてオスマン帝国の脅威に対抗しようとしました。 6,000~7,000年前に氷河が解けて海になり、そこに土砂が溜まってできあがったそうですよ。 特に、ヨーロッパへ侵攻してきたイスラム勢力や、ハンガリー付近にいたマジャール人などは脅威でした。 それによってヴェネツィアの力も削がれていったのです。, 1538年、プレヴェザの海戦でヴェネツィアとスペインの同盟軍はオスマン帝国に敗れ、これが決定的な敗北となりました。 湿地なら敵は入って来られないということで選んだのですが、自分たちが住むために干拓をすすめたのでした。 しかもそれにつけこんで他の民族が侵入してくるようになってきました。, そこでヴェネツィアの人々は自分たちで何とかしなくてはと考えます。 その栄え方と、運河が街中に走っている独特の景観の美しさから「アドリア海の女王」、「アドリア海の真珠」と呼ばれました。 十字軍とは、イスラム勢力の支配下にあったキリスト教の聖地・エルサレムを奪還しようとする運動です。 そのため、教皇はヴェネツィアに深く感謝し、自分の指輪をヴェネツィア総督に贈り、毎年指輪を海に投げ入れるようにと命じたのです。, 「我々は汝、海と結婚する」というフレーズで、海とヴェネツィアの強い結びつきを感じさせるものになっています。, 中世に東ローマ帝国内での免税特権をゲットしたヴェネツィアは、やがてアジアとの貿易に目を向けるようになりました。 この特権は、帝国内の商人ですら持っていなかった、「超プレミアム」な特権だったのです。 イタリアの世界遺産の数は世界一! マルフィ海岸やヴェネチアなど美しい景観が見られる町や、ドロミーティなど大自然が織りなす... それほど広くないエリアながら見どころ、楽しみどころがギュッとつまったローマ。遺跡の放つ迫力や深みのある街並みは、その美し... 街がまるごと世界遺産に登録されているフィレンツェ! 赤レンガ色のレトロな雰囲気が漂うフィレンツェは、歴史と芸術にあふれて... 街中を運河や水路が走る水の都ヴェネチア。そのユニークな風景を見るために世界中から多くの人が訪れます。醍醐味はゴンドラでの... ミラノコレクションが開かれることでも知られる最先端ファッションの街ミラノ! 歴史とモードが融合するミラノは、歴史スポット... イタリアンブランドの真髄は、卓越した伝統の職人技に支えられた優雅なデザインにある。豊富なイタリアンブランドのなかから人気... 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ミケレット・アッテンドロ率いるヴェネツィア軍がカザルマッジョーレで勝利した後、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは死亡し、ミラノで黄金アンブローシア共和国の建国が宣言された。そこでヴェネツィアはローディやピアチェンツァを占領したが、それ以上の進軍はフランチェスコ・スフォルツァにより阻止された。フランチェスコ・フォスカリは、フランチェスコ・スフォルツァに対し、ミラノの支配権を認める代わりにブレシアとヴィチェンツァを割譲させた。しかし、フランチェスコ・スフォルツァの勢力が拡大すると、ヴェネツィアは再びミラノとの戦争に突入した。結局、事態は1454年のローディの和によって終息した。ここでは、ベルガモとブレシアがヴェネツィア領であることが確認された。, この時点で、現在のヴェネトとフリウーリ、ベルガモ、クレモナ、トレント、ラヴェンナ、イストリア、ダルマチアがヴェネツィア領となっていた。東の国境はゴリツィアおよびオーストリアの公爵領と、南はフェラーラ公国と接していた。海外領土はネグロポンテ(現在のエヴィア島)やアイギナなどであった。, 1453年にコンスタンティノポリスがオスマン帝国のメフメト2世により攻められた際、ヴェネツィアは援軍を送ったが、ついに陥落し、再興した東ローマ帝国は滅亡した。しかしその後も東ローマ帝国の時代に確立された拠点や利権を維持しようと試みた。オスマン帝国はハンガリーのフニャディ・ヤーノシュやアルバニアのスカンデルベクらに敗北したが、西への野心を捨てておらず、ヴェネツィアとの戦争は避けられなかった。, 1463年にアルゴスにあるヴェネツィアの砦が破壊された。ヴェネツィアはハンガリー王マーチャーシュと同盟し、ギリシアの島々を海から、同時にブルガリアを陸から攻撃した。しかし、いくつかの小戦闘で同盟軍は勝利したものの、結局は撤退せざるを得なかった。1470年のオスマン帝国の大規模な反撃により、ヴェネツィアはエーゲ海の要衝、ネグロポンテを失った。, ヴェネツィアはペルシアや他のヨーロッパ諸国との同盟を模索したが、十分な支援を得ることはできず、アナトリアのハリケルナッソスやスミュルナに小規模な攻撃を加えることしかできなかった。一方、オスマン帝国はペロポネソス半島を占領し、ヴェネツィア本国へ進軍を開始し、ウーディネの街にまで到達した。ペルシアやカルマン侯国からの援軍も撃破され、ヴェネツィアは孤立無援となった。, アルバニアはスカンデルベクの死後その大半を占領されていたにもかかわらず、アントニオ・ロレダンの指揮によるシュコドラの抵抗により、オスマン帝国は撤退を余儀なくされた。しかし、オスマン帝国は再びアルバニアに侵攻し、2年後にシュコドラは陥落、続いてフリウーリもオスマン帝国に破壊された。1479年1月24日に講和条約が締結された。これによりヴェネツィアはアルゴス、ネグロポンテ、レムノスおよびシュコドラを割譲し、さらに賠償金1万ドゥカートを支払った。この5年後にメフメト2世の後継者であるバヤズィト2世との間で、ケファロニアを手放す代わりにザキントスをヴェネツィアに返還する合意が為された。, 1482年、ヴェネツィアは教皇シクストゥス4世と同盟してフェラーラ公国に侵攻し、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、ミラノ公国、およびエルコレ1世・デステ率いるフェラーラ公国の連合軍と戦った。これはフェラーラ戦争と呼ばれる。 イタリアというと、長靴のような形をしていますよね。 そのため、ため息橋と呼ばれるようになったのです。, ちなみに、今では日没時にヴェネツィア名物のゴンドラに乗ってこの橋の下を通り、キスをすると、永遠の愛が約束されるということになっているそうですよ。 ヴェネツィアとその潟を代表する構成資産としては、「サン・マルコ広場」が有名です。, ナポレオンが「世界でもっとも美しい広場」と評したこの広場は、ヴェネツィアの顔でもあります。, そこに面する「サン・マルコ大聖堂」は、守護聖人の項目で触れたヴェネツィアの守護聖人・聖マルコの遺骸を納めるために造られたものです。 ここにヴェネツィアは国力を注入し、戦闘と商いの両方に仕える船を開発したのです。 それが、「守護聖人」の選定です。, キリスト教由来の人物、例えば「聖○○」などと言ういわゆる「聖人」を、自分たちの国の守護聖人として選び、自分たちがその聖人に守られているというアピールは、キリスト教が大きなウエイトを占める当時のヨーロッパにあってはとても重要なことでした。 まず行ったのが、国立造船所「アルセナーレ」の建設でした。 The most important study of the life of Renaissance nuns, with much on aristocratic family networks and the life of women more generally. 人々の結束力の強さと、ヴェネツィアの国としての底力を見せつけた瞬間でした。, 群雄割拠とも言える当時のヨーロッパ・地中海世界では、自国の存在を示すことが何よりも重要でした。 当時は1日に1隻を造ってしまうほどだったそうですよ。 ここから、ヴェネツィアの全盛時代が幕を開けることになります。, アドリア海を手にするということは、巨大なフランク王国と東ローマ帝国の間で、小国ヴェネツィアが生き延びる唯一の手段でした。 Grubb, James S. (1986). この理由もまた外敵の脅威で、当時の西ヨーロッパをほぼ手にしていたフランク王国が攻撃を加えてきたのでした。 ヴェネツィア > 商売から国力を強くしていった国・ヴェネツィアの歴史を、現在の美しいヴェネツィアに重ねて見てみると、観光する時もより興味深く見ていくことができると思いますよ。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, 誰もが一度は耳にしたことがあるはずの都市・ヴェネツィア。英語名はヴェニスと言います。ゴンドラが街の中を行き交う、「水の都」というイメージがある方も多いと思います。ロマンチックで美しい街ですよね。そんなヴェネツィアですが、なぜ水の都となったのでしょうか。それには、ヴェネツィアが歩んできた長い歴史が関係しているんですよ。では、これからヴェネツィアが飛ぶ鳥を落とす勢いを誇った時期を含めて、ご紹介したいと思います。. その後の条約によってオーストリアの支配下に入り、ヴェネツィア共和国は消滅となったのでした。, オーストリアの下でのヴェネツィアの状況は常に不安定で、19世紀初頭には隣のロンバルディアとロンバルド=ヴェネト王国を北イタリアに建国しますが、やはりオーストリアに降伏することとなります。 7世紀末には総督を選び、共和制の形を整えて、ここから1797年まで約1,000年続くヴェネツィア共和国が誕生したのでした。 ヴェネツィア共和国の歴史(ヴェネツィアきょうわこくのれきし)では、ヴェネツィア共和国の誕生から滅亡までを解説する。東ローマ帝国の自治領として誕生した同国は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し、強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及んだ。しかし、大航海時代に入ると地中海貿易の重要性が相対的に低下し、またオスマン帝国の侵攻により多くの領土を失ったことにより衰退していき、最終的にはナポレ … その理由は、ポルトガルがインド航路の利益を独占し、ヨーロッパ諸国はポルトガルから名産品や香辛料などを買い入れるようになったためでした。, 加えて、1492年にはコロンブスがアメリカ大陸を発見していたので、太平洋や大西洋に世界の貿易の中心が移っていったのです。 そのため、メイン言語は徐々に英語へと移っていきました。 症状によっては皮膚が黒くなることがあり、「黒死病」とも呼ばれたそうです。 ヴェネツィアはこの戦争で大きな痛手を被ったが、結果的にポレージネとロヴィーゴを獲得し、イタリア半島における勢力を確固たるものとした。1480年代後半に、ヴェネツィアは教皇インノケンティウス8世とオーストリアのシギスムンド[要曖昧さ回避]を相手に戦った。また、フランス王シャルル8世に対するイタリア同盟にも参加した。また、1503年のイスパニア王国によるナポリ王国侵攻に加わり、アプリア港を得た。この港は、アドリア海とイオニア諸島の安全確保において重要な役割を果たした。, キプロス王国では後継者争いの中でヴェネツィア貴族のコルナーロ家が影響力を増していた。ジャック2世はコルナーロ家の娘カタリーナ・コルナーロを妻として王位に就いたが、男子を得た直後に病死した。その男子はジャック3世となったが夭逝し、カタリーナが王となった。そして1489年、カタリーナはキプロスをヴェネツィアに譲渡した。, 15世紀末の時点で、ヴェネツィアの人口は18万人に及び、パリに次いでヨーロッパ第2の大都市となっていた[13]。ヴェネツィア共和国の面積はおよそ70,000km²に及び、総人口は210万人であった。行政上、ヴェネツィア領には3つの区分が存在した。「ドガード(Dogado, ドージェの領域の意)」は首都ヴェネツィアとその周辺領域であり、「海洋州 (Stato da Mar)」にはイストリア、ダルマチア、アルバニア沿岸、アプリア港、イオニア諸島、クレタ、エーゲ海の諸島、キプロス、西南ヨーロッパおよび近東の要塞および商業基地が分類された。「安定地域 (Stato di Terraferma)」はヴェネト、フリウーリ、イリリア沿岸、東ロンバルディアおよびロマーニャであった。, 1499年、ヴェネツィアはフランス王ルイ12世と同盟してミラノ公国と戦い、クレモナを得た。同年、オスマン帝国はレパントを陸と海の両面から攻撃した。アントニオ・グリマーニは航海者であると同時に優れた商人、そして外交官でもあったが、ゾンキオの戦いで敗れ、フリウーリは再びオスマン帝国に略奪された。ヴェネツィアは全面戦争への突入を回避するため、軍事基地であったレパント、モドンおよびコロニを割譲した。, ロマーニャは公式には教皇領であったが、現実には小領主が乱立しており、事実上の独立状態にあった。1508年、教皇ユリウス2世は、ロマーニャの支配を取り戻すためにヴェネツィアの勢力を削ぐ必要があると考え、周辺諸国との間にカンブレー同盟を成立させた。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はフリウーリとヴェネトを、イスパニア王国はアプリア港を、フランス王国はクレモナを、ハンガリー王国はダルマチアを、それぞれ欲した。, 最初にヴェネツィアに侵攻したのはフランス王国である。1509年5月14日、アニャデッロの戦いでヴェネツィア軍は完敗し、フランス王国と神聖ローマ帝国によりヴェネトは占領された。しかしアンドレア・グリッティが1509年7月にパドヴァを神聖ローマ帝国から奪還し、さらに巧みな外交を展開することによりヴェネツィアは滅亡を免れた。アプリア港を割譲することによりイスパニア王国との講和に成功し、また、教皇ユリウス2世はヴェネツィアが滅亡すればイタリアはフランス王国やオスマン帝国に占領されるのではないかと危惧して神聖同盟を結成した。最終的にはブレシアとヴェローナをフランスから奪還し、アッダ川までの領土を回復した。諸戦の完敗から巻き返したとはいえ、この戦争により、ヴェネツィアの領土拡大は終わりを告げた。, 1537年から1540年の対オスマン帝国の戦争に、ヴェネツィアはイスパニア王国および神聖ローマ帝国のカール5世と同盟して参戦した。しかし1538年のプレヴェザの海戦でアンドレア・ドーリアを提督とする同盟艦隊は敗北した。1540年にヴェネツィアはオスマン帝国と講和し、サヌード家のナクソス公国を割譲した。これにより、東地中海の制海権はオスマン帝国のものとなった。, ヴェネツィアのガレー船の漕ぎ手は、初期はヴェネツィア市民のみで構成されていた。後にダルマチア人、クレタ人、ギリシア人なども多く加わったが、いずれにせよ1545年までは自由民がこの役に就いていた。しかし、ガレー船の増加に十分な漕ぎ手を集めることが難しくなったため、鎖に繋がれた奴隷を漕ぎ手として採用することにした。これは、諸外国の海軍では古くから行われてきたことである。こうした奴隷による漕ぎ手は、Cristoforo da Canalによって初めてヴェネツィアに導入された。1563年の時点で、ヴェネツィアの人口は16万8千人に減少していた[14]。, 1570年にオスマン帝国はヴェネツィア領キプロスを攻撃し、ファマグスタの街は13ヶ月の間戦い抜いたが、ついに陥落した。オスマン帝国の提督ララ・ムスタファ・パシャは、ヴェネツィアの総督マルコ・アントニオ・ブラガディンの皮を剥いで殺した。ヴェネツィアは、イスパニア王国、教皇庁と共に神聖同盟を形成し、ガレー船208隻から成る艦隊を構成した。このうち110隻がセバスティアーノ・ヴェニエル率いるヴェネツィア船であった。提督はスペイン王フェリペ2世の異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアであった。, オスマン帝国の艦隊は神聖同盟側とほぼ同数であり、アドリア海をレージナで北上した後パトラ湾のレパントへ補給のため入港した。神聖同盟側はメッシーナに集結した後、10月7日にレパントのオスマン帝国艦隊を撃破、117隻のガレー船を拿捕した。これがレパントの海戦である。ヴェネツィアはキプロス奪還を希望したが、フェリペ2世らが反対したため、神聖同盟はそのまま解散された。結局、1573年にヴェネツィアはオスマン帝国と講和し、キプロスを割譲した。1575年時点でのヴェネツィアの人口は17万5千人であったが、1581年には12万4千人にまで減少していた[15]。, 1605年に教皇となったパウルス5世の意向を受けて、バルバロ家のエルモラオ・バルバロらが、聖職者に一般法廷で訴追されない特権を付与すべしと主張した。ヴェネツィアではこれに反対する意見が多数であり、教皇への反発から、教会への不動産譲渡の禁止と無許可での教会新築の禁止を決定した。そして、これに違反したとして二人の聖職者を投獄した。パウルス5世は、これらの決定が教会法に抵触すると主張し、撤回を要求した。ヴェネツィアはこの要求に従わず、パウルス5世はヴェネツィアにおける聖務停止を決定した。, ヴェネツィアは聖務停止を意に介せず、聖職者達に通常の職務を遂行するよう要請した。Servite Orderの教会法学者パオロ・サルピは、1606年の時点で神学および教会法に関するシニョーリア(Signoria)の顧問であり、このヴェネツィアの決定を理論面から支えた。この件はフランスの仲介により和解に至り、聖務停止は一年後に解除された。ヴェネツィアは、法の支配は全ての市民に及び、一切の例外は存在しないことを確認した。, 1613年から1617年までオーストリアとの間に戦争が行われた。ヴェネツィア政府の記録によれば、その戦争の原因は、ハプスブルク家がウスコッチにアドリア沿岸を攻撃させている、ということであった。ウスコッチ(イタリア語: Uscocchi)は、主としてボスニアやダルマチアのオスマン帝国領からのキリスト教徒難民であり、オーストリアに徴兵されて国境警備の任に就いていた。彼らはセーニャに居住してアドリア海で海賊を行い、ヴェネツィアの懸案事項となっていた。, ヴェネツィアは1613年にウスコッチ討伐を行い、1613年にオーストリア大公を破った。さらにオーストリアへ軍を派遣する一方、サヴォイア公国へ資金援助し、イスパニア王国の軍をロンバルディアで足止めさせた。この戦争でオーストリアから決定的な勝利を得ることはできなかったが、1617年の講和条約でハプスブルク家に対し、ウスコッチを内陸へ移住させることに合意させた。, 1617年、イスパニア王国のナポリ総督はアドリア海の支配権をヴェネツィアから奪取すべく艦隊を派遣した。これに続いて、暴動や反乱の噂がヴェネツィア中を駆け巡り、オーストリアとの戦争のために集められていた各国からの傭兵隊の間で衝突が起こった。これはイスパニア大使ベドマルの陰謀であった。このことをユグノーの船長から知った十人委員会は直ちに3人の容疑者を逮捕し、議会はイスパニア大使の即時送還を決定、イスパニア王国との緊張は1622年に最高潮に達した。, アントニオ・フォスカーリニはヴェネツィア議会の議員であると同時に駐イングランド大使であったが、大使在任中の内通、ならびに帰国後にイスパニア王国のスパイとして働いた容疑で告発された。前者については無罪となったが、後者について有罪となり、1622年にピアッツェッタの絞首台に吊るされた。しかし、数ヶ月後に十人委員会は、彼は無実であり、陰謀の犠牲者であったことに気が付いた。彼の名誉は回復された。この事件はヨーロッパ中に知れ渡ることとなった。, 1628年から始まるマントヴァ継承戦争(イタリア語版、英語版)の際にはフランス王国と同盟してハプスブルク家およびサヴォイア公国と戦った。ヴェネツィア軍は神聖ローマ帝国の攻撃を受けていたマントヴァの救援に向かったが、撃破された。戦争は1631年にフランス王国の事実上の勝利として終結したが、ヴェネツィアはこれに貢献しなかった。戦争の影響として1629年から1630年にかけてヴェネツィアで黒死病が流行し、16ヶ月の間に5万人が死亡した。これは全人口のおよそ3分の1であった。これに関連してサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が建設された。, 1638年、ヴェネツィア海軍がクレタを巡回している間に、アルジェやチュニスを拠点とするバルバリア海賊が16隻のガレー船でアドリア海に侵入した。海軍が戻った頃には、海賊はヴァローナに拠点を再構築していた。ヴェネツィアの司令官マリノ・カッペロは海賊を攻撃し、拠点を砲撃し、敵船を捕獲した。これにより3600人の奴隷が解放された。これに対しオスマン帝国は駐コンスタンティノポリスのヴェネツィア大使アルヴィーゼ・コンターリニを投獄した。この時は外交努力により戦争は回避された。, しかし6年後にオスマン帝国はクレタ最大の港カンディアを攻撃したため交戦、クレタ戦争は25年続き、17世紀のヴェネツィアで最大の懸案事項であった。1645年に戦争はヴェネツィア本土に飛び火した。オスマン帝国はダルマチアを攻撃したが、アドリア海での優位を生かしたヴェネツィアはこれを防いだ。しかし、同年8月22日、クレタの要塞カニア(現在のハニア)は陥落した。1647年の8月から9月にかけて、オスマン帝国はシベニクを攻撃したが失敗した。翌年、ヴェネツィアはクリッサを始めとするいくつかの要塞を奪還した。, ヴェネツィアの基本方針はダーダネルス海峡を封鎖することクレタのオスマン軍への補給を断つことであり、実際に1655年6月21日の戦闘やダーダネルス海峡の戦いで勝利したが、クレタでの戦況は好転しなかった。1657年7月17日から19日まで3日間続いた戦闘では、ラッツァロ・モチェニーゴは手折れたマストの下敷きとなって死亡した。, フランス・スペイン戦争が1659年に終結すると、ヴェネツィアに対するキリスト教諸国からの支援が増大した。1666年にカニアの奪還を試みたが失敗した。1669年には、カンディアを包囲するオスマン軍に対し、フランス王国の援軍が陸から、モチェニーゴの部隊が海から攻撃を行ったが、これも失敗した。フランス軍は撤退し、カンディアには3600人の守備兵が残るばかりとなった。フランチェスコ・モロシーニは1669年9月6日に降伏した。クレタは、いくつかの小拠点を除いて割譲された。ティノスやキティラといった島々やダルマチアはヴェネツィアが保有し続けた。, 1684年、前年の第二次ウィーン包囲の勝利からキリスト教国が反撃、大トルコ戦争の開始においてオスマン帝国に対抗するため、ヴェネツィアはオーストリアと神聖同盟を結んだ。後にロシア帝国も同盟に参加した。, モレア戦争の初期に、フランチェスコ・モロシーニはレフカス島を占領し、ギリシアの港の奪還に向かった。1685年6月のコロニ上陸に始まり、8月のパトラ、レパント、コリント占領までに、モレア(ペロポネソス半島)はヴェネツィアの支配下に入った。9月にアテネを攻撃した際、ヴェネツィアの砲撃はパルテノン神殿に命中した。また、ヴェネツィアはダルマチアからもオスマン帝国の勢力を駆逐した。, 1688年のネグロポンテ奪還は失敗したが、フランチェスコ・モロシーニの後継者は、大艦隊を派遣して1695年にミティリニで、1697年6月6日にアンドロスで、1698年にダーダネルス海峡で勝利した。しかしギリシアを奪還するには至らず、1699年にカルロヴィッツ条約ではオーストリアやロシア帝国に比べヴェネツィアが得た領土は僅かであった。過去2世紀の間にオスマン帝国に奪われた東地中海の拠点を奪還することはできなかった。, 1700年、スペイン継承戦争の前触れとして、フランス王国とハプスブルク家は共にヴェネツィアと同盟すべく使者を派遣した。ヴェネツィア政府は不透明な成り行きを警戒して中立を保った。結局、戦争の終結までヴェネツィアは中立を貫いた。, 1714年12月、オスマン・ヴェネツィア戦争が勃発した。オスマン帝国はティノスやアイギナを占領し、コリント地峡を越えてコリントを占領した。ダニエル・ドルフィン率いるヴェネツィア艦隊は、モレアの救援に向かうよりは戦力を温存すべきではないかとの意見もあり出足が遅れた。艦隊がモレアに到着した時には、ナフプリオ、モドン、コロニおよびマルヴァージアは陥落していた。イオニア諸島のレフカス島と、クレタのスピナロンガおよびスーダはカンディア陥落後もヴェネツィア領であったが、この時放棄された。オスマン帝国はさらにコルフに上陸したが、防衛隊がかろうじて撃退した。, オスマン帝国はオーストリアとも戦端を開き(墺土戦争)、バルカン半島で交戦していたが、1716年8月3日、オスマン帝国はペーターヴァルダインの戦いでオーストリアに敗北、翌1717年のベオグラード包囲戦でも大敗した。これを受けてヴェネツィア海軍は1717年と1718年にエーゲ海およびダーダネルス海峡へ侵攻したが、芳しい戦果は得られなかった。1718年7月21日のパッサロヴィッツ条約でオーストリアは領土を著しく拡大した一方、ヴェネツィアはアルバニアとダルマチアで僅かに領土を広げつつもモレアを失った。これが、ヴェネツィアがオスマン帝国と戦った最後の戦争であった。, トスカーナ大公国がティレニア海に面して建設したリヴォルノの港は、北海方面との貿易により発展した。さらにアドリア海に面した教皇領のアンコーナや1719年に自由港となったハプスブルク家のトリエステのために、アドリア海はもはやヴェネツィアの海とは呼べなくなっていた。また、ジェノヴァ共和国は古くからヴェネツィアの競争相手であった。これらの諸都市によりヴェネツィアの通商は18世紀に衰退した。ヴェローナを始めとする本土東方の街でさえ、生活物資はジェノヴァやリヴォルノから輸入していた。さらにマグリブ沿岸の海賊により、ヴェネツィア商人は自由に往来することができなくなっていた。, カルロ・コンタリーニやジョルジョ・ピサーニらは、少数の有力貴族による寡頭制を廃することを提案した。しかし、そうすることによる混乱を恐れたドージェパオロ・レニエールは反対した。さらに一部の勢力がこの提案を政権転覆の陰謀であると主張したことにより、カルロ・コンタリーニはカッターロの砦に、ジョルジョ・ピサーニはヴェローナのサン・フェリーチェの城に、それぞれ幽閉された。, 1784年から1786年にかけて、チュニスの海賊はマルタの聖ヨハネ騎士団により受けた被害の保証をヴェネツィアに要求した。もちろん、聖ヨハネ騎士団はヴェネツィアの管轄ではないから、これは言いがかりである。しかし外交による解決は失敗した。アンジェロ・エモ率いるヴェネツィア艦隊はチュニスを封鎖し、1784年11月と1785年5月にスースを、1785年8月にスファックスを、同9月にラ・コレッタを、1786年にビゼルトを砲撃した。しかし、それ以上の成果を挙げることができず、議会はエモと艦隊をコルフに呼び戻した。エモの死後、チュニスとの講和が成立した。1792年までに、ヴェネツィアの商船は309隻にまで減少していた[16]。, 1789年に新興貴族のルドヴィーコ・マニンがドージェに選出された。選挙のための費用は18世紀になって高騰していた。貴族のピエトロ・グラデニーゴは, ヴェネツィア共和国はもはや自力で防衛することができなくなった。1796年の時点でヴェネツィアが保有していた艦隊は4隻のガレー船と7隻のガリオット船のみであった[17]。また陸軍も、おもにクロアチア人傭兵からなるわずかな旅団があるのみであった。, 1796年の春、フランス共和国のナポレオン・ボナパルトはピエモンテを攻略し、敗走するオーストリア軍をモンテノッテ(モンテノッテの戦い)からローディ(ロディの戦い)へと追撃した(イタリア戦役 (1796-1797年)参照)。ナポレオン率いるフランス軍は、オーストリア軍を追求して中立を保っていたヴェネツィアの国境を越えた。年末までに、アディジェ川までのヴェネツィア領は占領された。また、ヴィチェンツァ、カドーレ地方 (Cadore) およびフリウーリはオーストリアが支配した。翌1797年の戦争の中で、ナポレオンはオーストリアとの休戦を模索し、アルプスをまたぐオーストリアの領土確保を認めるようになった。1797年4月18日に調印されたレオーベンの和約は、その条項の大半が秘密にされたが、ヴェネツィア共和国領をオーストリア領土とすることで休戦が成立した。, 休戦協定は、市街と潟湖上にのみ限ったヴェネツィア共和国の存続を想定していたが、おそらくは教皇領の犠牲に対する補償であった。ブレシアやベルガモはヴェネツィア共和国に反旗を翻し、一方ほかの地域では反フランスの運動が広がった。ナポレオンは4月9日、ヴェネツィアに対して戦争をちらつかせて脅迫した。4月25日に彼は、グラーツでヴェネツィアの代表に以下のように告げた。「異端審問も元老院もたくさんだ。私はヴェネツィアにとってのアッティラとなる」。, Domenico Pizzamanoは、強引に入港しようとするフランス艦に、リドの砦から砲撃を加えた。5月1日、ナポレオン・ボナパルトはヴェネツィアに宣戦を布告した。フランス軍はヴェネツィアの街の端にまで迫った。フランスによって「革命化」されたヴェネト地方の都市では臨時市政府が設立されていた。5月12日、ヴェネツィア共和国大評議会(Maggior Consiglio)は、臨時市政府に権力を引き渡すことを決議した。投票総数は512であり定足数には足りず、反対10、棄権5であった。5月16日、ヴェネツィアの臨時市政府が設立された。, 1797年10月18日、ウーディネ郊外のカンポ・フォルミオにおいてフランス・オーストリア間の正式な講和条約が調印された(ナポレオンは滞在していたドージェ・マニンの館で署名したともいう)。このカンポ・フォルミオ条約によりヴェネツィアとヴェネツィア共和国領はオーストリアが領有することとなり、ヴェネツィア共和国は正式に消滅した。, Welcome to Encyclopædia Britannica's Guide to History, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ヴェネツィア共和国の歴史&oldid=77318013.

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