後藤田正晴 菅直人

後藤田正晴さんは遺言で「安倍晋三だけは絶対に総理にしてはいけない!あいつには岸の血が流れている。みんな岸の恐ろしさを知らない。岸の血って、血縁だけじゃないん… 望月衣塑子さんが拡散した問題ツイート     米軍が墜落した自衛隊F35Aの回収に躍起なのは中ロへの機密漏洩を ... 望月衣塑子さんのデマ拡散についてのツイッターでの反応     劇中の内調ツイッター工作部隊を見て、SNSでデマを拡散するのっ ... 問題となった望月衣塑子さんのリツイート         望月衣塑子さんがリツ ... 望月衣塑子さんに関する記事     〈望月記者の質問のスタイルについて感じている項目〉を選ぶ質問では、「長い」が17人、そう ... 望月衣塑子さんのツイッターでの炎上発言     日本には既に十分過ぎる程ギャンブルある #カジノ 要らない カジノ解禁の江原 ... Copyright© あの人ツイッターであんなこと【まとめ】 , 2020 All Rights Reserved. Line: 478 ][8]。, 大学紛争の影響で卒業研究が出来なかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年[9]。1970年3月、東京工業大学理工学部応用物理学科を卒業。結婚については菅伸子を参照。, 弁理士を目指し、小田島特許事務所に就職。1971年、弁理士試験に合格。弁理士を志望したのは、技術者であった父から、会社内での技術者の不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても「自分の将来・先が見える等」の理由からだった[10][要ページ番号]。また、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった[11]。1974年に独立して「菅特許事務所」を開設する[11]。その後弁護士となっていた大学の後輩とともに菅・高橋特許法律事務所を設立した[5]。, 1971年、東京の地価高騰に疑問を抱き一橋大生の協力を得て土地問題のシンポジウムを開催。1972年の春に「宅地並み課税推進討論集会」を開催し、市川房枝、青島幸男、青木茂、都留重人を招く。「よりよい住まいを求める市民の会」と「恐怖の化学物質を追放するグループ」を結成し、市民運動を展開[5]。, 1973年、市川や青木が代表幹事を務める「理想選挙推進市民の会」から誘われて東京都議会議員選挙を手伝い、その後菅らのグループは市民運動の成果を政治に反映させたいと考え、1971年の参議院選挙で落選し引退を宣言していた市川に1974年の参院選全国区への立候補を依頼。市川は度重なる要請にも応じなかったが、菅らは「市川房枝を勝手に推薦する会」を結成。根負けした市川が立候補を決めたことを受けてグループは「市川房枝さんを推薦する会」を結成し、菅が選挙事務長に就任した[5]。20日間余りの選挙運動で人員の手配や事務管理などを切り盛りした菅は「庶務課長」と呼ばれ、市川は2位当選した。市川が1981年に死去した際、菅は「政治家としての発言力、信頼性は恐らくナンバーワンで、なにより存在そのものに意味がありました」「私は何ものにも替えがたい貴重な薫陶を受けたと感謝しています」といった言葉を寄せている[5]。, 市川の支援団体「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」の支持を得て、1976年の第34回衆院選に旧東京7区から無所属で立候補するも次点で落選[12][13]。, 1977年、江田三郎の要請を受けて社会市民連合に参加した[14] が、市川房枝から反対され「参加民主主義をめざす市民の会」から退会した[15]。社会市民連合では江田とともに代表に就任し、1977年の第11回参院選に東京都選挙区から出馬したが7月10日、落選。, 翌1978年、田英夫らが合流した社市連は社会民主連合となり、菅は副代表に就任。1978年度版の平凡社百科年鑑に市民運動家として掲載された。, 1979年の第35回衆院選では東京7区(当時)から社民連公認で出馬したが10月7日に次々点で落選した。この頃は経済的に苦しく、弁理士業務の傍ら補習塾を開いていた[5]。, 衆参ダブル選挙となった1980年の第36回衆院選では6月22日、前回を9万近く上回る票を獲得し1位で初当選。当時の朝日新聞社の石川真澄記者は、自宅が菅の選挙区の近くだったこともあり、裏方の手伝いをし、当選後も自宅に菅が来ることがあった。些細な雑談の折に、石川記者は「甘いマスクで上手に隠しているが、頭のいい勉強家」であると感じている[16]。マスコミは「政治家の秘書や二世、官僚ではなく、労組や宗教団体の支援も持たない、いわば『顔のない男』が激戦区を勝ち抜いた」「市民選挙の有効性を実証」と書き立てた[5]。土地問題や税制などを中心に、政府を鋭く追及する市民派の論客として知られるようになっていった。1981年には丸山ワクチンの不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。, 1983年12月18日、第37回衆議院議員総選挙で当選(2期目)。 1985年、社会民主連合副書記長兼政策委員長に就任。 1986年7月6日、第38回衆議院議員総選挙で当選(3期目)。この総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。1990年2月18日、第39回衆議院議員総選挙で当選(4期目)。, 1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介議院運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した。, 1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。1993年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任した。, 1994年の社会民主連合が解散。その後は新党さきがけに入党。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。当時の自民党政調会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれ、この時代に「住専処理スキーム」が決定。また、さきがけ東京代表として1995年統一地方選挙や第17回参議院議員通常選挙で党勢拡大に尽力[注 1]。, 1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣(第80代)として入閣し、薬害エイズ事件や病原性大腸菌の集団感染の問題、らい予防法の廃止に対応した。, 1995年(平成7年)秋、エイズ訴訟問題の集会で妻の伸子が川田龍平と会ったことがきっかけでこの問題に関わるようになる[17]。新党さきがけは党を挙げて取り組む方針を決め、菅は自民・社会両党にプロジェクトチーム作りを提案するが拒否される。翌1996年1月の橋本政権発足にあたり、自民党は自社さ連立政権の政策合意文として「薬害問題を教訓として再発防止に努める」を提案するが、菅は「教訓といったらもう終わってしまったことのようではないか」と反発、「責任問題を含めて真相究明に努める」と改められた。また橋本龍太郎総理大臣が行う施政方針演説に盛り込まれていた自民党案も、合意文に改めさせた[17]。前政権の大蔵大臣に代わる重要ポストとしてさきがけが厚生大臣に送り込んだ菅は、住専問題処理の難航で第136回国会後の衆議院解散もあり得ると考え、3カ月でできることとしてエイズ訴訟の和解と公的介護保険導入の2つに絞った[17]。, 1996年(平成8年)1月23日、菅は11人の専従スタッフによる薬害拡大の原因解明調査班を設置。26日、それまで厚生省が見つからないと繰り返し主張していた、1983年(昭和58年)当時のエイズ研究班による通称「郡司ファイル」[注 2] が、3階にある薬務局審査課の書庫で発見された。ファイルの内容は非加熱製剤の危険性を十分認識しているものだった。2月9日に報告を受けた菅は同日夜の緊急記者会見で発表。発見から2週間かかったことについて「厚生省は建物が大きいので、担当者から大臣のところまでたどり着くのに2週間かかったようだ」とコメントした[17]。この発見について飯島勲は、内部資料の捜索は前任の森井忠良が始めたものであり、菅は森井と官僚たちの手柄を横取りしたと主張している[18]。一方菅は「資料がわずか3日で見つかるのはおかしい」との質問に「調査班を設置して本格的に調査を始めた。そして見つかった」と答えている[17]。, また、テリー伊藤と対談した当時の大蔵省官僚(匿名)は当時の菅の指示について、「あいつ(菅)は本当に頭がいいなあとわれわれが驚いたのは、それを小さい単位にしたことですよ。小さく分けた。しかも縦に分けた。(中略)どういう分け方かと言うと、単に班をつくったわけじゃなくて、この部屋のこのロッカーはこの3人、このロッカーはあんただけ、というふうに細かく縦に分けたんです。それを全部自分で割り振った。それを表にして突きつけた。文句いいようがなかった。ロッカーが自分の責任になったら、それは探しますよ。(後略)」と述べている[19]。, 2月16日、菅は厚生省で原告や弁護団を前に「菅も官僚も謝る」「謝ってすむ問題ではありませんが、本当に心から、心からお詫びいたします」と謝罪し、頭を下げた。またある女性が持ってきた、息子の骨壷に跪いて手を合わせ、この光景にすすり泣きの声とともに拍手がわいた。菅が厚生大臣として厚生省の責任を認めたことで、真相究明を求める世論が高まった[17]。, この事件の菅の処理について、彼の対談の際、カレル・ヴァン・ウォルフレンらは、日本に初めて官僚の説明責任という概念を持ち込み、『アカウンタビリティ』という言葉を定着させたと述べている[20]。2月21日に厚生省が公開した薬務局生物製剤課の資料では、1983年(昭和58年)7月4日に、危険な非加熱製剤の取り扱い中止と安全な加熱製剤の輸入を奨励しているのに対し、7月11日の資料は正反対の内容となっていた。この方針転換について、荒賀泰太薬務局長は課の方針ではないとしたが、菅は衆議院厚生委員会で「転換理由を判断できる資料はなく不可解」と答弁した[17]。, 1996年8月のO157騒動の時には「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への風評被害が発生し、結果倒産・破産するカイワレ農家や業者(その大半が自営業者や零細企業であった)が続出、自殺者まで出る事態となった。しかし、その後の立入検査においては施設、従業員および周辺環境からはO157は検出されなかった[21][22][23][24] ため、菅は記者会見でカイワレサラダを食べることで、安全性をアピールし、沈静化を図った。一方で「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。, その後、東京と大阪で風評被害を受けたカイワレ大根生産業者らが起こした国家賠償を求める民事裁判では、2002年には大阪地裁が判決文で「当時のO-157感染症の発生状況に照らし、これから更なる調査を重ねなければならない状況下において、かかる過渡的な情報で、かつ、それが公表されることによって対象者の利益を著しく害するおそれのある情報を、それによって被害を受けるおそれのある者に対する十分な手続的保障もないまま、厚生大臣が記者会見まで行って積極的に公表する緊急性、必要性は全く認められなかったといわざるを得ない」として、「中間報告の公表は、相当性を欠くものと認定せざるを得ない」と厚生大臣だった菅および厚生労働省公表方法の過失と風評被害を認定した[25]。この大阪地裁での判決について、菅は、ホームページ上で「十分な科学的根拠がない」と判決が認定した疫学調査は、集団食中毒などでは極めて有効な調査方法であるとして「裁判官の判断は疑問」と反論した[26]。しかし2004年にも大阪高裁の判決では、厚生省の公表によって「被控訴人が被る打撃や不利益に思いを至せば、その時点では、公表すべき緊急性、必要性があったものということはできない」「公表方法の選択が政策的判断であるという見地に立つとしても、その判断には逸脱があり違法である」と当時の菅大臣および厚生省の過失を認定し、国側が敗訴した[25][注 3]。, ほか、1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島(てしま)へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入った[27]。, 1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加。菅は鳩山と共に代表となり旧民主党がスタートした。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。 1996年10月20日、初の小選挙区比例代表並立制での選挙となる第41回衆議院議員総選挙に東京18区より立候補し当選(6期目)。, 1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流し新民主党を結成、党代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。, 1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。参議院は自民党が過半数割れとなり、橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追い込まれた。内閣総理大臣指名選挙では、自由党と日本共産党は第一回投票から菅に投票し決選投票では公明・改革クラブ・社民党・さきがけの支持もあり参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。, 1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙で、1月には再選するが松沢成文と拮抗し、9月には鳩山由紀夫に敗北した。この直後、党政策調査会長に就任した。, 2000年(平成12年)に党幹事長に就任。同年6月25日、第42回衆議院議員総選挙で当選(7期目)。2002年(平成14年)12月に鳩山由紀夫代表が辞任すると、岡田克也幹事長代理を代表選で破り、党代表に再び就任。次の内閣の総理大臣にもあわせて就任した(社民連時代は社会党シャドーキャビネットに入閣しなかった)。政治家の年金未納問題により辞任に追い込まれる2004年5月10日まで務めた。, 2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した(民由合併)。, 同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェスト(政策綱領)に掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例代表では自民党を上回った。菅代表は衆院選を迎えるに当たり、時の小泉首相に対し、自民党はマニフェストを国民の前に提示するかどうかを迫り、期限や事後チェック付きの政権公約としてのマニフェストと従来の公約との違いを自民党にも明確化するよう迫った[30]。小泉首相は、政党統一の政権公約として期限や事後チェックなどマニフェストとしての扱いを受けることを嫌い明言を避け続けていたが[要出典]、実際に2003年衆院選が行われることになると、小泉自民党を含む主要政党のほとんどがマニフェストを掲げて選挙戦を戦うこととなり、結果として菅および民主党が日本におけるマニフェスト選挙の定着に大きな役割を果たすこととなる。菅個人は、この2003年衆院選において初めて小選挙区のみで出馬し、比例上位優遇で国替えしてきた鳩山邦夫を破った(8期目)。(鳩山邦夫は比例復活)。, 小泉内閣の閣僚3人の国民年金未納が相次いで発覚した際、菅は街頭演説で「ふざけてますよね。“未納三兄弟”っていうんですよ」と自民党議員を批判し、年金未納問題に火を付けた(“未納三兄弟”は、1999年に発売された歌『だんご3兄弟』にちなむ)。年金未納閣僚はその後も続々と発覚した。これをチャンスと捉えて民主党次の内閣全員の国民年金納付書を公開して国民にアピールしようとしたところ、菅自身の厚生大臣時代の年金未払い記録が明らかとなった[31]。菅は行政側のミスであると何度も主張したが、行政側がその都度強く否定し、マスコミ報道等による世論により、2004年5月10日に党代表を辞任。しかし、辞任後、社会保険庁側から間違いを認めて国民年金脱退手続きを取り消したこと、同期間に国民年金の加入者であったことを証明する書面が送付された[32]。菅が主張したとおり国民年金の資格喪失は「行政上のミス」によるものであるにも拘らず、事後納付もできないため、未納は解消されず(未納期間2ヶ月)。政治評論家の岩見隆夫からは「菅氏の国民年金未加入問題は、本人の申し立て通り『行政上のミス』であった。当時、菅は辞めたほうがいいと書いたことは誤り、お詫びします」としつつ「自身の無年金のおかしさに気付き、対応しなかったのは、政治家としてうかつであった」といった指摘もなされた[33]。, 2004年7月、菅は自己を見つめ直したいという意図から「お遍路さん」スタイルで四国八十八カ所巡りを開始した。これは都合7回に分け、2013年9月に結願した[34]。, 2005年4月、法政大学大学院の客員教授に就任、「国民主権論」と題して講義を行う(2005年10月まで) [35]。, 2005年(平成17年)9月11日の第44回衆院選(小泉首相の解散による郵政選挙)では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たした。なお、この郵政選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)で立候補し、事実上の一騎討ちとなった。郵政民営化・刺客選挙を展開して時流に乗る自民党に対し、民主党は党全体が大逆風を受けていたが、菅は勝利し(9期目)東京の小選挙区では唯一の当選者となる(土屋は比例復活)。, 同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補し、小沢一郎からも本命視されていたものの、投票直前の演説で若き日からの辛酸と情熱を巧みに訴えた若手の代表格前原誠司に2票差で敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されたが、これを固辞し、一兵卒として前原民主党を支えると表明した。党代表戦に敗れた後は、団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動や、バイオマスの活用を盛んに提唱し始めた。, 2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣。その後行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争い47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任。代表に就任した小沢一郎、幹事長の鳩山由紀夫と菅の3人による挙党一致体制はトロイカ体制と呼ばれ、2009年の政権交代の原動力となった[36]。菅は党代表代行として国会論戦について主に担当し、国会での代表質問、テレビ出演などを積極的にこなした。, 2009年5月に小沢一郎が西松建設事件に関連して自身の公設秘書が逮捕された件で党代表を辞任すると、後任の代表となった鳩山由紀夫により、菅は引き続き党代表代行に再任。小沢も代表代行に就任しトロイカ体制は継続された。, 2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で当選(10期目)。2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣発足により、副総理として入閣、あわせて内閣府特命担当大臣(経済財政政策・科学技術政策)および「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」(いわゆる国家戦略担当大臣)に就任した。しかし、その後国家戦略相として予算編成の「司令塔」を期待されながら、その役割を果たせていないと鳩山首相から評された[38]。政府の新成長戦略策定の主導を果たしたが、予算編成には間に合わずに出遅れ感を際立たせることにもなった[39]。, 2010年1月7日、財務大臣の藤井裕久の辞任に伴い、副総理、経済財政政策担当相と兼務する形で、後任の財務大臣に横滑りで就任した。国家戦略担当大臣及び科学技術政策担当大臣は退任し、国家戦略担当相は行政刷新担当相の仙谷由人が、科学技術政策担当相は文部科学大臣の川端達夫がそれぞれ兼務し引き継いだ。財務大臣就任以後も、政治主導脱官僚をアピールするために、財務省ではなく引き続き官邸内の副総理室にとどまり、財務官僚が官邸に通う形にした。, 2010年3月19日、民主党東京都連会長辞任(民主党東京都連通常総会開催まで海江田万里衆議院議員が民主党東京都連会長職務代行に就任)。, 鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置する[41] などポスト鳩山の有力候補の一人と目された。, 2010年(平成22年)6月2日の鳩山首相の退陣表明を受け、後継を選出する民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日、民主党代表選挙に勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日に天皇に任命され、正式に内閣総理大臣に就任。菅直人内閣が発足する。6月8日の総理大臣官邸での記者会見の際には、「政治の役割は国民、世界の人が不幸になる要素をいかに少なくする『最小不幸社会』を作る事だ」と述べた[42]。, 鳩山の後任を決める2010年6月の民主党代表選挙において菅が出馬表明すると小沢一郎の党運営に不満を持っていた枝野幸男、仙谷由人らが菅支持に回った。小沢グループは菅の対抗馬として樽床伸二を擁立した。菅は樽床に勝利し、反小沢の急先鋒ともいわれた枝野、仙谷をそれぞれ党幹事長、官房長官に起用、小沢の意向により廃止された政策調査会を復活させた。また小沢、鳩山代表時代に作成されたマニフェストの一部修正にも取りかかった。こうして政権交代の原動力とも言われたトロイカ体制は崩壊し、メディアから"脱小沢"と称される路線に傾いていくこととなる。こうした動きを世論はおおむね評価し、内閣支持率は約60%という高水準で内閣は発足した。, しかし、就任してまもなく自由民主党の案を参考にして消費税増税(およびそれを財源にした法人税減税)を含む税制改革を打ちだしたため、中小企業や自営業者を切り捨てるものであるとの批判を浴び、発言が二転三転した[43]。この影響もあってか、7月11日投開票の第22回参議院議員通常選挙で、民主党の獲得議席は現有の54議席を大きく下回る44議席にとどまった。この結果、参議院で過半数を失うねじれ状態にとなり、菅の党内における求心力は低下した。9月の党代表選に向け、菅は再選に意欲をみせるが、小沢に近い議員グループを中心に党執行部の参院選敗退の責任を問う声が強まり、小沢擁立の動きも加速した。, こうした中、党の分裂を懸念した前首相の鳩山由紀夫が仲介に乗り出す。鳩山は菅に小沢の出馬見送りと引き換えに枝野幹事長、仙谷官房長官の更迭や小沢の要職での起用、トロイカ体制に輿石参院会長を加えた「トロイカ+1」体制の構築などを菅に要請し[44]、告示直前まで調整が行われたが、菅は密室談合を懸念し両者折り合わず、最後に菅-小沢会談が行われたが、結局物別れに終わった[36]。鳩山はこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。これを受け小沢は告示日である9月1日に出馬表明し、代表選での菅との直接対決に突入した。この代表選において菅は金銭問題が取りざたされる小沢を意識し、クリーンでオープンな党運営や雇用政策の重視を主張し、一方の小沢は衆議院総選挙での2009マニフェストの順守、地方への紐付き補助金の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張した[45]。, 小沢の出馬表明当初は党内最大グループを率い、鳩山グループの支持を取り付けた小沢が国会議員票では優勢との見方もあった[46] が、菅は世論調査で小沢を上回る支持を得たことを背景に攻勢を強め[47]、9月14日に国会議員による投開票が行われた結果、小沢を下し再選を果たした[48]。, 9月17日、菅改造内閣発足。内閣改造人事では、仙谷官房長官は留任、枝野の後任の幹事長に外相の岡田克也、岡田の後任の外相に前原誠司を充てるなど非小沢系が要職に起用され、「脱小沢」を強化 後藤田正晴「安倍晋三だけは首相にしてはいけない。人としての情がない、恥を知らない」 安倍晋太郎「晋三は人の情けがないから政治家には向かない」 池上彰言っちゃったよ、安倍内閣20人中18人が神道政治連盟、日本会議のメンバーだって事。 カミソリ後藤田と呼ばれた、目利きの政治家であった後藤田正晴氏が生前、「菅直人を総理にしてはダメだ」と言っていたそうですが、後藤田氏の予言は見事に的中したと思いますか? なにかに例えてわかりやすく、どなたか教えて下さい。, 自民党の人達が菅首相に特別定額給付金5万円の再給付を要望しましたが、実現したらいつ頃になると思いますか?もしも実現するとしたら前回と同じ10万円で良いと思っていますが…. JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには. 当初、海江田万里代表と細野豪志幹事長は離党勧告を主眼に置いた厳しい処分で臨む方針であり、海江田代表は菅に自主的な離党を迫った[84] が、菅は「どんな処分も受け入れる」としながらも離党を勧告された途端、「受け入れられない」と拒否。その上、党内からは「厳し過ぎる」との批判が高まり、処分内容が軽減されることとなった[85]。2013年8月20日、菅への処分は党員資格停止(3ヵ月)に決定し、同時に党最高顧問を解任された[86]。, 2014年4月には、トルコとアラブ首長国連邦への原発輸出を可能とする原子力協定承認案の衆院本会議での採決を巡って民主党執行部の協定賛成の方針に反し、辻元清美ら党内の脱原発派の議員8人とともに欠席、棄権した。民主党はこの行動により大畠章宏幹事長名で菅を「注意」とする処分を決定した[87]。, 菅の脱原発を巡るこれら一連の行動に、民主党の支援団体の一つで原子力推進の立場をとる電力総連などは激しく反発しているとされる[88]。, 2014年12月14日に行われた第47回衆議院議員総選挙では、再び自民党の土屋正忠に小選挙区で敗れたものの、前回と同様に比例東京ブロックで最後の1議席を獲得し、復活当選した(12期目)[89][90][91][92]。, 2016年3月、民主党は維新の党などと合流し、党名を民進党に改称、菅は民進党の所属となった。同年9月に行われた民進党代表選挙では「若手候補を支えたい」と語り、20人の推薦人確保に苦慮していた若手候補の玉木雄一郎の推薦人に名を連ね支援した[93]。この代表選の結果、選出された蓮舫を代表とする体制の下で党最高顧問に復帰する。, 2017年9月1日に行われた蓮舫の後任を選出するために行われた民進党代表選挙では前原誠司と枝野幸男が名乗りを上げ、保守対リベラルの対決とも評される[94] 中、菅は党内リベラル派が支援する枝野の推薦人に名を連ね[95] 支援したが、選挙の結果、前原が勝利した。, 同年9月28日、前原は衆議院解散後に行われた民進党常任理事会において、党として比例代表を含め公認候補を擁立せず、希望の党に公認申請を依頼し、事実上希望の党と合流することを提案、党常任理事会が承認[96]。さらに、その後行われた両院議員総会において、全会一致で採択される。これにより民進党は事実上の「解党」と受け止められた[97]。しかし、希望の党の代表である小池百合子は民進党全体との合流は否定し[98]、安全保障関連法の容認と憲法改正などを条件に掲げ民進党の左派、リベラル系議員を排除すると断言[99]、菅らも希望の党との合流を拒否されるとの見方が強まった[100]。, こうした動きに反発した民進党のリベラル系議員は希望の党への合流を拒否し、10月2日には枝野幸男を代表とする新党「立憲民主党」が結成された[101]。菅は枝野の呼びかけに応える形で同党への参加を表明[102]、同日、民進党を離党し、翌3日に出された設立届には枝野幸男、長妻昭、赤松広隆らとともに同党の設立メンバーとして名を連ねた[103][104][105]。第48回衆議院議員総選挙では立憲民主党公認で東京18区から立候補[106]。自民党の土屋正忠、希望の党が擁立した元テレビ東京記者の鴇田敦らを破り13選[107][108]。7年ぶりに小選挙区議席を奪還した[109][110]。, 総理大臣就任前から諫早湾干拓事業を自然環境保全や公共事業削減の観点で批判している[116]。2010年12月15日、福岡高裁で諫早湾干拓事業についての上告審で、国側の敗訴となる5年間の水門開放命令がでると内閣総理大臣に就任していた菅は、福岡高等裁判所の判決について上告を断念すると表明した[116][信頼性要検証]。当時の諫早市長や雲仙市長、長崎県知事は地元に何の相談もなく、今まで国策として勧められた干拓事業の大きな見直しを発表されたとして、強く反発し[117]、仙谷由人官房長官(当時)や鹿野道彦農水相(当時)が菅を説得しようとしたが菅は持論を変えようとしなかった。水門の開放が決まったことで、300億円を超える追加事業が必要となった。門開放によって広範囲の塩害・水害が想定されることが危惧される一方、適切な対策をとれば大きな悪影響は出ないとする見方もある[118]。また、2013年には長崎地裁で、開門によって多くの農業関係者だけでなく水産資源回復を望む漁業関係者まで生活基盤が危機に晒されるとして、開門差し止めの仮処分判決が出た[117]。これによって農水省は2つの矛盾した判決の板ばさみに苦悩することとなった[117]。また、開門派の地元住民を説得する機会が失われて[119]、話が拗れたため諫早市自治会連合会長[120] や諫早市の宮本明雄市長は長崎県知事(中村法道)や地元住民代表らが官邸に上告しないことを宣言する直前に会ったところ、野党時代に開門派の市民活動家と訪れ、現地の職員を「開けなさい!」などと怒鳴りつけていた頃の知識しかなかったことに触れ2013年に批判している[121]。, 2011年5月8日に浜岡以外の全国にある原発に停止要請する考えの有無を記者らに問われて、「ありません」と明言した。朝日新聞に「政権として性急な「脱原発」路線には踏み込まない意向を事実上表明した」と報道された。菅政権の仙谷由人官房副長官も浜岡以外の原発について同日出演したNHKの番組で、「近く大地震が起こる確率は低い。日本海側、瀬戸内にある原発はまず心配ないと、科学的にも結論が今の段階で出せるだろう」と説明し、「戦略、政策としては原発を堅持する」と語っている[136]。しかし、その後は「原発ゼロは私の使命」として、原子力発電の廃止を訴えている[137]。また自然エネルギー政策研究所というシンクタンクの顧問を務めている[138]。, 非常に短気で、些細なことでも癇癪を起こして怒鳴り散らす面倒な性格から、産経新聞は「「イラ菅」と呼ばれている」と報じた[139]。, 朝日新聞の北沢卓也は、すぐに爆発する「イラ菅」から、じっと黙って我慢する「ダマ菅」に変身した、と報じた[140]。, 産経新聞は、首相就任後の2010年6月11日、取材の記者団から、「所信表明演説について、具体性がないと言う批判があるが?」と質問され、一変した険しい表情で「何の批判か?」「何故批判が出ているのか?」などと、逆に記者を問い詰めた、と報じた[139]。, 村山富市以来の、政治家一族出身ではない「非世襲」の首相とされるが、祖父である菅實は地元の議員を務めていた。「たたき上げ政治家として、世襲の『お坊ちゃま首相』とは違う、たくましさを見せてほしい」(中堅)と期待する声がある。仙谷由人は菅を「地盤(後援組織)、看板(知名度)、カバン(資金)なく、まったく無名の青年が言葉と政局観、政治観で、ここまでこられた」と評している[141]。「合法的に特許業務可能な職業経験者たる日本国総理大臣」は菅以外では弁護士経験者の初代日本社会党委員長片山哲と初代自民党総裁鳩山一郎のみである。, 早野透によれば、政治家としての変わり身の早さや巧みな政界遊泳術を持つ「バルカン政治家」(欧州の火薬庫といわれ駆け引きにあけくれたバルカン半島にちなむ)「バル菅」とも称された。好きな偉人に高杉晋作を挙げて「高杉を一番好きな理由は、逃げ足が速いことなんだ。当時の長州は勤王派がとったり、佐幕派がとったりしたでしょ。代わるたびに腹を切らなきゃいけないんじゃね。潔く腹を切るのは、一見いいけれども、それはあきらめだ。」[142] と語ってもいる。, 夫人の伸子は「することはきっちりやってくれる人。いざという時に頼りになる人」と評している[143]。, 古くからの友人である伊藤雄一郎によると、菅は「もうだめだ」「嫌だ」といった否定の言葉を嫌い、他人の意見が気に入らないなら自分はどう考えるのか建設的に話せと言うのが口癖だという[5]。, 震災や原発事故の対応について毎日新聞の岩見隆夫は「不都合な発言ならなかったことにしていい、とでも考えているのか」と批判したり[144]、産経新聞の阿比留瑠比は「歩く風評被害」と揶揄し「『思いつき』だけの軽はずみな発言を続ける」[145] などの批判がある(#東日本大震災も参照)。これら発言は菅語とも呼ばれる[146]。, 市川は著書において「自力で闘いなさいと言っていたが、菅は選挙で私の名前をいたる所で使い、私の選挙名簿を利用してカンパや選挙運動への協力を要請強要していたらしく、私が主張し実践してきた理想選挙と大分異なっていた」と記している[15] が、同じく支援してきた伊藤雄一郎は、「力のある人に頼ろうとすることは絶対にしなかった」と述べている[5]。, 作家の有吉佐和子は自身が市川房江を応援していた時の模様を小説『複合汚染』に記す中で、菅が立候補を渋る市川の代わりに有吉を候補者にしようと話していたと聞き、菅らに好かれたら作家生命が危うくなると考えて必要以上に怖い顔をし続けたとしている。, 「麻雀点数計算機能を備えた電子卓上式計算機」を実用新案登録(公開実用 昭和52-148019)しており、かつて麻雀博物館に試作品が展示されていた[147] ほどの愛好家である[148]。2014年6月2日発売の近代麻雀2014年7/1号のインタビュー記事にて、賭け麻雀をしているともとれる発言をしたと産経新聞に報じられた[148]。, 自身の政治哲学である「最小不幸社会」について「恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあまり政治が関与すべきではなくて、逆に貧困、あるいは戦争、そういったことを無くすことにこそ政治が力を尽くすべきだ」と述べている。また、「最小不幸社会」は高校時代に読んだオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の影響を受けたものであると語っている[149]。, 日本国政府の初動対応について、当時経済産業大臣だった海江田万里は「原子力緊急事態宣言」の発令を求めたが、菅の了解を得るのに手間取ったと証言、これにより政府の初動対応が遅れたと証言している[171]。これに対し菅は「もっと早ければという指摘は受け止めるが、首相官邸の対策室はすでに動いており結果的に支障はなかった」と釈明した[172]。, 3月12日午前3時、東京電力からの、福島第一原子力発電所1号機の格納容器の破裂を避けるために、原子炉炉心から大気中への排気を行い、原子炉格納容器の内部圧力を下げるベント作業の実施の依頼に対して、官邸は東京電力に、枝野官房長官(当時)らが、国民に広報するまで待つことを指示した上で、[要出典]許可を出した[173]。そして、現地の状況が十分に把握できないことから、菅直人首相自身が、ベント実施に並行して事故現場の福島第一原発を視察することを決定し、同日7時11分、菅が事故現場にカメラマンらとともに到着した[173]。しかし、操作マニュアルの不備や、高濃度の放射線に現場が汚染されたこと、また東電から官邸への情報通達が行われないなどの情報錯そうもありベントの作業は難航しており、菅の到着した時間になっても未だベント操作が行われていなかったため、到着した菅は当時福島第一原子力発電所所長であった吉田昌郎に直接説明を求めた。結局ベントは同日14時30分にようやく実施された[174]。, 当時の野党は、菅が震災翌日に福島原発を視察する「政治的パフォーマンス」を行ったことで事故対応の初動に遅れが生じたと批判していた[175]。官房長官だった枝野幸男はこの視察に関し「首相を守る観点からは体を張ってでも止めるべきだったが、事故をいかに小さく、早く収束させるかという観点からは間違っていなかった」と擁護し[176]、後日行われた事故調査・検証委員会による聴取では吉田は菅の視察による作業への影響は全くなかったと答えている[177]。菅は総理辞任後にNHKが行ったインタビューの中で、原発事故の初動対応でベントが遅れた理由として、「一つは技術的に放射線量が高いとか、暗いとか、いろいろな資材が足りないとかで作業ができなかったことは十分あり得る。もう一つは、当時東京電力の最高責任者の2人が事故が発生した11日の段階で本店におらず、そういうことが影響したのかもしれない」と述べている[178]。, 事故から4日後の3月15日早朝、東京電力本社に乗り込み、政府・東電の統合対策本部の設置を宣言して、東京電力の幹部たちを叱咤した[179]。なお、当時官房長官を務めた枝野幸男や経産相の海江田万里など当時の政府関係者は、この行動は東電の清水正孝社長(当時)から「作業員を同原発から全面撤退させたい」との意向が官房長官や経産相を通して伝えられたことを受けたものであると証言している[180] が、東電側は一部の作業員の撤退と説明しており両者の説明が食い違っている[181]。また、菅はこのとき「被害が甚大だ。このままでは日本国滅亡だ」「撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」「60になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」[182] などの発言をしている。, 3月25日、菅は内閣府原子力委員長近藤駿介に「最悪シナリオ」作成を指示した。作成された内容は、半径170km以内で強制移住、東京都の大部分を含む半径250km以内で避難が必要となる可能性があることを指摘した内容[183] で[184]、過度な混乱を避けるため2012年2月まで公表されなかった。近藤は「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」と話している[185]。, 菅は事故対応をめぐり、東京電力や原子力安全・保安院、原子力安全委員会へ強い不信感を募らせ、「セカンドオピニオンも重要」として内閣官房参与を次々に増員し、依存を強めていったといわれている[186][187]。他方、組織が乱立したことによる混乱も見られた。内閣官房参与の小佐古敏荘が辞任した問題では、菅が小佐古と面識がなく任命に際して事前の面談が行われなかったことが発覚、慰留が細野豪志補佐官に丸投げされていたことが批判された[188][189]。, 2011年4月11日、東日本大震災に対する義捐への感謝広告を菅直人首相名義で、米国、英国、韓国、中国、ロシア、フランスの6カ国7紙の新聞に掲載した。最大規模の支援を行った台湾(中華民国)については外交関係が無いことから掲載を行わなかったが、実質的な在台湾の日本大使館として機能している財団法人交流協会を通じて馬英九総統、呉敦義行政院長、楊進添・外交部長に対し感謝状を送った[190][191]。当初、広告は予算の関係で上記6カ国7紙にとどまっていたが、無料で受け入れる新聞が増加したことにより31カ国・地域の105紙に掲載された[192]。更に交流協会は、震災から1周年となる2012年3月11日に合わせて1週間に渡り、台湾の全土を対象とするテレビCMや特別番組、新聞広告などを展開した。他の国における日本大使館は、このようなことを行っていない[193][194][195][196][197]。, 2011年6月3日には自民党の森まさこが緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムSPEEDI(スピーディ)の存在と意義を十分に知りながら、原発事故のベント作業が行われたときに公表の遅れ[198] が周辺住民を被曝の危険にさらしたと指摘[199]。菅は「予測図は私や官房長官には伝達されなかった」「情報が正確に伝わらなかったことに責任を感じている。責任者として大変申し訳ない」と陳謝した[200][201]。, 2010年2月のチリ地震を受けて、同年6月11日に野党自民党の議員が公明党と連携して津波対策の推進に関する法律案(津波対策推進法案)を議員立法で国会に提出したが、審議を行わないまま継続審議としつるし状態にした[202]。その後、東日本大震災の発生による津波によって多数の犠牲者が発生したことを受けて、野党から審議活性化を強く要求され、方針を転換し、野党案をもとにした共同提案に応じ、2011年6月17日、津波対策推進法が成立した。同年6月20日の参院東日本大震災復興特別委員会において、自民党の岡田広から「大震災より前に法が成立していれば、訓練や教育の充実など対策が進んでいたはずだ」などと追及され、「もっと早期に通していれば、もっと多くの人命が救えたはずだ」などと反省の弁を述べ、「政府の責任を痛感している」と謝罪した。震災前に津波対策推進法案を共同提出していた自民党の松本純は、「与野党連携を目指す上で最良のテーマだったはずだ」と指摘し、「震災前に気付いてほしかった」と悔しさをにじませた[203]。, 福島第一原子力発電所事故を受け、菅は国のエネルギー政策の見直しに乗り出した。5月6日、菅は中部電力浜岡原子力発電所に対して「(東海地震への)安全確保がなされるまで原子炉運転を停止するよう」指示を出した[204]。5月10日には記者会見の中で原発の増設が謳われた従来のエネルギー基本計画を白紙に戻すと宣言し、5月26日、27日に行われた第37回主要国首脳会議(ドーヴィル・サミット)の中では原発の安全性を高めた上での利用と同時に自然エネルギーの割合を「2020年代のできるだけ早い時期に、少なくとも20%を超えるレベルまで」拡大していくと表明した[205]。, 2011年7月13日に「原発に依存しない社会を目指すべき」[206] と表明し、「原発がない社会=脱原発」と受け取られ、脱原発・反原発を支持する市民の一部からは称賛の声もあがったが[146]、マスコミや経済界からは「具体策がない」と批判された[207][208][209]。翌日の予算委員会において、野党から追及を受けると、「個人的な思いを言っただけだ」と一旦トーンダウンしたが、その後8月6日に広島市で行われた記者会見の中で「脱原発依存」は、政府の方針となっているとの認識を示した[210]。, 2012年2月27日に発表された民間の事故調報告(福島原発事故独立検証委員会)では、東京電力本店に乗り込んだ件などの言動は東京電力側に「覚悟を迫った」と評価したうえで、事故対応の局面で怒鳴るなど菅の個性が「混乱や摩擦の原因ともなった」「関係者を萎縮させるなど心理的抑制効果という負の面があった」「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で泥縄的な危機管理」「菅の決定や要請がベントの早期実現に役立ったと認められる点はなかった」「官邸の中断要請に従っていれば作業が遅延した可能性がある危険な状況だった」(ただし、中止の指示を最終的に直接出したのは総理大臣の菅ではなく、官邸へ派遣された東京電力フェローの武黒一郎によるものだったと武黒本人が認めている(吉田調書))[要出典]。「会議で海水注入による再臨界の可能性を菅が強い調子で問いただし再検討を指示していた」と指摘した[211][212][213]。同委員会の北沢宏一委員長は、菅の事故対応について「情報の出し方を失敗し、国民の評価を失った。全体としては不合格」と評価した[214]。, 国際原子力機関は日本政府の原発事故後の対応を模範的なものであった評価している。一方で、原発事故の未然対策については不十分であり、日本の原発管理はその構造から見直すべきであるとした[215]。, 当時、政府内で事故対応にあたった閣僚からは「あれぐらいわがままで勝手で強引でという人間でなかったら、たぶん政府の機能が止まっていたのではないか」(枝野幸男)、「菅首相以外の首相があそこで判断を迫られた場合、判断できた人が誰なのか、私は分からない」(細野豪志)など当時の菅の対応を支持する声もある[234]。当時首相補佐官を務めた辻元清美は、菅が理念重視のあまり気が回らず、妥協、利害調整ができなかったと指摘する一方で「浜岡原発停止要請」や「脱原発表明」は菅自身が考え抜き決断したとも語っている[235]。当時菅内閣の防衛大臣であった北澤俊美は東電の「全面撤退」を菅が拒否したとして「戦後最大の危機に対処できたのは菅首相のリーダーシップがあったればこそだ」と評価する[236] 一方、住民避難のため緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)の活用を「強く進言したが採用されなかった」と記し「首相が孤軍奮闘する場面が多く、閣僚、官僚を信じ、任せて一丸となる仕組みやムードを作れなかった」と苦言も呈した[237]。当時の菅の側近であり、首相補佐官として事故対応にあたった寺田学は、3月15日早朝に東電本店に乗り込んだ際の菅の演説を史上最低と批判した[238]。, 2011年3月11日、資金管理団体が、2006年と2009年に、金融機関の元理事で、現在、横浜市内で不動産業や飲食店などを営む複数の会社で代表取締役を務め、町田市などでパチンコ店を3店舗経営し年商が約50億円にのぼる[261][262] 河本善鎬という通名の日本人名を持つ在日韓国人[263] から計104万円の献金を受け取っていたことが朝日新聞の取材で発覚した。在日韓国人系金融機関は、旧横浜商銀信用組合(現横浜中央信用組合)。献金を行った元理事は在日韓国人で、外国人からの献金を禁じた政治資金規正法違反にあたる。なお献金を受け取った2006年は民主党代表代行、2009年は政権交代後、副総理兼国家戦略担当大臣だった時期にあたる[264]。菅本人は献金の受け取りを認めたものの、元理事が外国人だということは知らなかったと主張した。これを受けて、自民党、公明党、みんなの党からは菅の首相退陣を求める声が上がった[265]。同日に発生した東北地方太平洋沖地震によってこの件の追及は中断した。同年4月8日、菅の資金管理団体「草志会」はこの男性が韓国籍であると確認した上で、受け取った献金104万円を在日韓国人男性に3月14日に返却していたことが分かった[266]。週刊文春は新聞で報じられた3月11日に「落ち着いたら何でもしますから、とにかく逃げて下さい」、3月12日に「過去も現在も未来も会ったことはなかったことにしてほしい」と2度に渡り菅本人が直接在日韓国人男性の携帯に電話連絡をしていたと報じている[267]。また、5月には、神奈川県の住民らが菅に対する告発状を東京地検に提出した[268] が、東京地検特捜部は2011年10月、菅が外国人であるとの事情を知って献金を貰った証拠が無いとして不起訴とした[269]。その後、告発していた神奈川県の住民らが、東京地検特捜部の不起訴処分を不服として、検察審査会に審査を申し立てした[270] が、東京第3検察審査会は審査の結果、不起訴相当と議決した[271]。, 菅の資金管理団体「草志会」は2007年から2009年に計6250万円の政治献金を行うなど「政権交代をめざす市民の会」という政治団体を支援していた[272][273][274]。この「政権交代をめざす市民の会」の母体は「市民の党」という政治団体であり、代表の酒井は菅が初当選した選挙を手伝い、民主党議員約100人の選挙応援も行った間柄で、酒井も「菅とは30年ぐらい前からの付き合い」だとしている[275]。しかし、2011年7月に「市民の党」に石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が所属していたことが発覚[276]。これを受け平沼赳夫が会長を務める超党派の「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」がこの献金問題を解明する調査特別委員会を設置することを決め、調査には東祥三拉致担当副大臣や拉致被害者の支援団体も協力すると明言した[277]。 2011年の参院予算委員会で参考人として出席した家族会事務局長の増元照明から「菅首相は辛元死刑囚の嘆願書への署名について、うかつだったと説明され、われわれ家族会も了承していたが、これで2度目だ。先ほどから分からない、知らなかったなどと答弁されていたが、国民の前で献金の意図を明確にしてほしい」と訴えられ、自民党の山谷えり子からも「わけの分からない団体に2億円も出すのか?」などと厳しく追及された。これを受けて菅は「そういうこと(=拉致事件との関係)があるなら、(問題団体との)お付き合いを控えたい」「そういうことがあるなら、大変申し訳なく思う」と陳謝した[278][279][280][281][282]。市民団体がこの件に関して、政治資金収支報告書に虚偽の記載をしたとして菅の資金管理団体「草志会」を告訴したが、2012年10月5日付で不起訴処分となった[283]。, 菅家は地元では有名な旧家[284] で、久米南町神目を拠点とした菅納氏の本家である[285]。元は豪族で、江戸時代は庄屋を務めた家柄だったことが合併前の旧建部町の町史にも掲載されている[284]。地元に住む菅姓の一族によると「近所のお年寄りは『家から見える土地はすべて菅家のものだった』と話している」といい[284]、岡山大学が歴史研究のために本家所蔵の古文書を持って行ったこともある[285]。直人の祖父菅實は医師で久米郡議会議員。その弟は弁護士だった[285]。集落には1400年代から続く菅家の古い墓が今も残っている[285]。家紋は梅鉢紋。閣僚資産公開では、菅夫婦は東京都武蔵野市にマンションを共有しているほか、妻の伸子と2人で本籍地の岡山市北区に、甲子園球場の約3・8倍に相当する計約14万9千m²の土地を所有している(直人が約6万8648m²、伸子が約8万654m²)[284]。非課税の保安林なども含むこれらの土地について、地元の不動産業者は「取引がほとんどなく、標準的な価格は出せない」として資産価値は高くないという[284]。菅の事務所によると、土地は父親から1982年ごろに生前贈与された山林や原野[284]。, 民社協会 :旧民社党G 1994(平成6)年 - 政権戦略研究会 :旧羽田G 1998(平成10)年(解党時に解散) - 国のかたち研究会 :菅G 2000(平成12)年 - 新政局懇談会 :横路G 2002(平成14)年(解党時に解散) - 凌雲会 :前原G 2002(平成14)年 - 花斉会 :野田G 2002(平成14)年 - リベラルの会 近藤G 2004(平成16)年(解党時に解散) - 「日本のグランド・デザイン」研究会 :玄葉G 2011(平成23)年3月(解党時に解散) - 素交会 :大畠G 2011(平成23)年8月 - サンクチュアリ :赤松G 2012(平成24)年8月 - 自誓会 :細野派 2014(平成26)年1月, 政権公約を実現する会 :鳩山G 2002(平成14)年 - 旧自由党 + 一新会 + 北辰会 + 木曜会 ≒ 新しい政策研究会 :小沢G 2003(平成15)年 - 21世紀国家ビジョン研究会 :小沢鋭仁G 2010(平成22)年6月 - 青山会 :樽床G 2010(平成22)年10月 - 雄志会 :平野G 2010(平成22)年12月 - 日本維新・V-democrats :原口G 2011(平成23)年2月 - 国益を考える会 :2011(平成23)年4月 - メロスネット :2011(平成23)年6月 - 真実の会 :福田グループ 2012(平成24)年7月 - 礎会 :2011(平成23)年8月, 新宗連 (立正佼成会 - PL教団 ほか) - 浄土真宗 - 天理教 - 曹洞宗 ほか, 1.菅直人 - 2.鳩山由紀夫 - 3.菅 - 4.岡田克也 - 5.前原誠司 - 6.小沢一郎 - 7.鳩山 - 8.菅 - 9.野田佳彦 - 10.海江田万里 - 11.岡田(※太字は首相), 民由合併 - 福田・小沢会談 - 民社国連立政権 - 民国連立政権 - 民国合併構想 - 三党合意, 自民党 - 新党さきがけ - 社民党 - 旧民主党 - 民政党 (太陽党 - フロム・ファイブ - 国民の声) - 新党友愛 - 民主改革連合 - 自由党 (院内会派:民主友愛太陽国民連合 - 無所属クラブ - 新緑風会), 保守新党 - 改革クラブ - 新党きづな - 国民の生活が第一 - みどりの風 - 新党大地 - 減税日本・反TPP・脱原発を実現する党, 娯楽産業健全育成研究会:1999(平成11)年 - HE議連:2004(平成16)年- 人権擁護法案から人権を守る会:2005(平成17)年- 慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会:2007(平成19)年 - 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟:2008(平成20)年1月 - 永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会:2008(平成20)年1月 - 朝鮮半島問題研究会:2008(平成20)年2月 - 戸籍法を考える議員連盟:2009(平成21)年 - 石川知裕代議士の逮捕を考える会:2010(平成22)年1月 - 司法のあり方を検証・提言する議員連盟:2010(平成22)年4月 - TPPを慎重に考える会:2011(平成23)年2月ほか, 第二期民主党をつくる有志の会結成:2002(平成14)年 - 石井紘基刺殺事件:2002(平成14)年 - 歳入庁構想:2004(平成16)年 - 堀江メール問題:2006(平成18)年 - 消えた年金:2007(平成19)年 - 天皇特例会見:2009(平成21)年 - 公務員庁構想:2010(平成22)年 - 鳩山おろし:2010(平成22)年 - 菅おろし:2011(平成23)年 - 民主党国民の声結成:2011(平成23)年 - 死因究明等の推進に関する法律成立:2012(平成24)年, カテゴリ - 国会議員一覧 - 離党した国会議員一覧 - 除名された国会議員一覧 - 閣僚経験者一覧 - 民主王国 - 七奉行 - 七人の侍, 代表:枝野幸男 – 幹事長:福山哲郎 – 政務調査会長:逢坂誠二 – 国会対策委員長:辻元清美 – 参議院議員会長:福山哲郎 – 参議院幹事長:蓮舫 – 選挙対策委員長:長妻昭 – 組織委員長:佐々木隆博, リベラル – 立憲主義 – 草の根民主主義 – 熟議民主主義 – 進歩主義 – 国民主権 – 原発ゼロ – 平和主義・専守防衛 – 持続可能な社会, 日本労働組合総連合会 – 部落解放同盟 – 原水爆禁止日本国民会議 – 平和フォーラム, 国民民主党 – 日本共産党 – 社会民主党 – れいわ新選組 – 新社会党 – 緑の党 – 市民連合 – 全国市民政治ネットワーク, 伊藤雄一郎 『菅直人の一歩』 第3章p90-128 KKベストセラーズ、1996年, 「国家戦略になっていない」 鳩山首相が戦略室の“機能不全”認める」産経、2009.12.2, 翻弄された諫早干拓〜開門期限あと半年 菅元首相が残した時限爆弾 msn産経ニュース 2013年6月17日配信 2013年11月17日閲覧, 2006年1月27日放送の討論番組『朝まで生テレビ』の発言。平沢も同番組に出演していた。, 「「基地問題どうにもならぬ」 首相、昨年もらす」(日本経済新聞2010年6月15日), 「菅首相知らなかった?「大臣は自衛官じゃないんですよ」(朝日新聞2010年8月19日), 首相夕食『身内』と息抜き 1位は補佐官、次いで夫人(東京新聞 2010年12月8日 朝刊), 読売新聞 5月17日(木)21時27分配信 初動遅れ「菅氏説得に時間かかった」…海江田氏, 「首相 反論また反論 歴代政権に責任転嫁も」『日本経済新聞』2011年3月30日付朝刊、13版、4面。, 「津波対策法で菅首相が反省の弁、「早期に通していればもっと人命救えた」」神奈川新聞、2011年6月20日, 浜岡原発:全面停止へ 東海地震備え、安全対策完成まで 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https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=菅直人&oldid=80004475, 麻生太郎首相に対しては、「『一流ホテルのバーが安い』という感覚そのものが問われている。『安いところで酒を飲む』と言うと、われわれの感覚では焼き鳥屋だ」と連日の高級ホテルで政財界の要人と会談していることを批判した, 2010年8月19日、自衛隊制服組との意見交換会において「改めて法律を調べてみたら『総理大臣は, 総理大臣就任後に平均予算2万円以上の高級レストランで側近や夫人と連日の会食を続けていた, 2012年6月9日、国会の「事故調査委員会」は原発事故の住民避難の混乱拡大について、菅前首相をはじめ、, これに関し、菅は、中止の指示は東電側から出されたもので安倍に嘘の情報を流されたとして、謝罪と訂正を要求していたが, 2002年3月15日 大阪地方裁判所 平成9年(ワ)第2222号 損害賠償請求事件.

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