横山やすし 長女

漫才ブームの波に乗り「天才漫才師」と呼ばれた漫才師。本名は木村雄二(ゆうじ)。「やっさん」の愛称で知られる。長男は俳優の木村一八。西川きよしとのコンビ漫才は爆発的人気を呼び、「やすきよ漫才」として昭和を代表する漫才師となった。代表的なギャグは、「毎度!横山や!」「怒るでしかし!」「メガネ、メガネ…」など。少年時代からお笑いの才能を発揮し、15歳のときに同級生と「堺伸スケ・正スケ」を結成し、デビュー。相方の廃業後、横山ノックの内弟子となり「横山やすし」の芸名を与えられた。そして、1966年に西川きよしと「やすしきよし」を結成しデビュー、1970年には第5回上方漫才大賞を受賞し、漫才ブームの到来とともに絶大な人気を得るようになった。しかし、「最後の破滅型天才芸人」ともいわれるように短気な性格ゆえトラブルやスキャンダルも多く、あまりの不祥事の多さから1989年には吉本興業から解雇され、芸能界を追放されてしまった。その後、芸能界に復帰しVシネマなどに出演する一方、参議院選挙に出馬するなどしたが往年の勢いを取り戻すことはできなかった。そして、1996年1月21日、大阪府摂津市にある自宅にてアルコール性肝硬変を死因として急逝。まだ51歳の早すぎる死であった。, ゆかりの品が展示されている主な記念館。現在でも残る生家や墓所、縁のある土地にたてられた銅像など。. 三人の子を育てていた形になりますが、末っ子の光に関しては、やすしは非常に優しかったとのことです。 - 西川きよしのご縁です! 後に輝子は堺から追い出される形となり、四国に戻り水商売をしていたとか。 モーターボート協会の笹川良一会長(当時)から、やすしはかわいがられていたそうで、映画を撮る際には資金提供も受けています。 ]まで語られ続けることとなった。その点に関して木村は雑誌のインタビューで「そら、天才やったと思いますよ。ある意味何らかで天才やったと言える」と述べていた。, 全盛期の年収は5億円以上あったが(横山たかしが内弟子時代に月収7,000万円の月があったと証言[要出典])、初代桂春団治と藤山寛美のように金遣いも荒かった。ボート、セスナ機購入などで借金が膨らみ[注 4]、差し押さえを受けたこともあった。セスナ機には娘のひかりにちなんで「月光号」と名付け、頭金の5,000円を払ったのみでさんざん乗り回し、テレビ・雑誌等の取材に「死ぬときはこれで落ちたるねん。要するに空飛ぶ棺桶やがな」と自慢げに話し、周囲の報道陣を大爆笑させたが、そのセスナ機も結局借金が膨らみ手放すことになり、『新伍のお待ちどうさま』(TBS系)にゲスト出演した時、公開オークションに掛けたりもした(そこで売れたか他で売れたかは不明)[要出典]。島田洋七が、セスナに乗せてもらった時のこととして「『忙しいなか、よく免許を取りましたね』言うたら、『免許? そんなもんあるかいな!』て(笑)」と述べている[9]。金使いが荒かったのは、春團治と寛美の魅力に惚れたからとされる。家族へは月30万円しか入れていなかったという。, その反面、居酒屋で「本当は今日飲みたくないんや」と呟いたときでも、後輩やスタッフがその居酒屋に入ってきた途端いつもの調子で「はよ酒もってこい!」と叫んでいたという話もあるなど、やすしというキャラクターを守るため、普段でも舞台と同じキャラクターを作っていた節がある。. 以降、ふたりの漫才はキレにキレ、ボケとツッコミの応酬は真剣勝負の場だったと言われています。, 暴行を受け、失語症になって入院していた頃、息子に「愛人たちのことを頼む」と語っていたと、没後、一八が暴露しています。 1002:以下、関連・おすすめ記事をお送りします2020/01/01 00:00:00 ID:akb48matomemory. しかし、試験を受けましたが、視力が悪かったため、不合格となりました。 この頃、人気があるうちはみんなチヤホヤしてくれましたが、なくなると冷たくなったので、悔しい思いをしたとのことです。 阪神大震災の翌年96年1月21日、天才漫才師・横山やすしが肝硬変で亡くなった。まだ51歳だった。先日亡くなったやしきたかじん(享年64)以上の破天荒な言動、破滅的な暴飲が命を縮めた。新聞の訃報記事を亡者原稿という。モウジャ・ゲンコウと読む。やっさん自身が言った「人間、死んだときに価値がわかるんや」の通り、新聞の訃報記事は大事だ。どれだけ、人となりや悼む記事をきっちり書き込めているか。訃報記事の扱いが新聞社の力量を測れる、といっても過言ではない。前回に続いて「亡者」の話。横山やすしが亡くなって、はや18年目。月日の経るのは早い。子供は先妻の子供を含めて3人の子供がいる。長男、長女(雅美)、次女。長男は俳優の木村一八。末娘の光は漫才や舞台女優をめざしたが、今は滋賀の住職の夫人として2児のママになっている。啓子夫人(故人)を苦しめた破天荒なやっさんも、この末娘に従順だった。「そんなに、飲んだらアカン!」夫人に言われると怒髪天の怒り具合だったが、光にいわれるとシュンとしていたのが懐かしい。その末娘が父の18回目の命日に綴った。大阪・河内長野市の南大阪霊園に墓参した時の様子は、亡き父への慈愛にあふれている。【抜粋】「今日は亡き父の命日です。昨日、今日と大阪に帰ってお墓参りして、きょうだい揃ってお参りしてきました。もう丸18年!早いなぁ~f(^ー^;中学三年生やったもんなぁ~救急車に震えながら乗ったことや、母に病院から先に一人で帰らされて、お布団ひいたり親戚に電話してる間に、ニュース速報…。出るのが早すぎてビックリしたわ!(゜ロ゜;寝れなくて、朝イチのニュース見て泣いたなぁ…。新聞もテレビもどこを見ても父のこと…辛かったなぁ…見たくなかった…色んな事を、まだ鮮明に覚えてるなぁ…北野たけしさんが弔問してくれはったのに二階でウノしてて、知らなくて会えなかったとか…。そんなときにウノしてる場合じゃないのにね(笑)ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!もう辛くは無いけど、命日は毎年なんだかちょっと寂しいな…」そうそう、ニュース速報は速かった。知人から速報の流れる数時間前に「やっさんが亡くなった」と聞き、すぐに搬送先の病院にかけつけた。夜間の搬送写真も撮り、その時点では、完全なスクープだったが、吉本の木村政雄常務(当時=元やすきよのマネジャー)が共同通信に訃報を流した。たけしが深夜に電撃的に弔問したのも大きく報じられた。暴力事件などでたびたび迷惑をかけた長男・一八が、通夜の時、棺に添い寝をしていた姿は強烈だった。ボクシングの辰吉が、オヤジの葬儀で骨をかじって飲み込んだ姿とダブる。不肖の父と子。苦労をかければ、かけるほど「愛おしく」なるものかもしれない。「ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!」亡き父への愛娘の「ラブレター」は身につまされる。◆横山やすし(よこやま やすし=本名・木村雄二)1944年3月18日~96年1月21日。高知・宿毛生まれ。堺市立旭中卒→秋田實門下生として松竹芸能→横山ノックに誘われ吉本入り。66年22歳でデビューした西川きよしとのやすきよコンビ漫才は一世を風靡した。2番目の啓子夫人もやすし死去の12年後の2008年12月に心筋梗塞で他界。, 先日亡くなったやしきたかじん(享年64)以上の破天荒な言動、破滅的な暴飲が命を縮めた。, やっさん自身が言った「人間、死んだときに価値がわかるんや」の通り、新聞の訃報記事は大事だ。, 末娘の光は漫才や舞台女優をめざしたが、今は滋賀の住職の夫人として2児のママになっている。, 夫人に言われると怒髪天の怒り具合だったが、光にいわれるとシュンとしていたのが懐かしい。, 【抜粋】「今日は亡き父の命日です。昨日、今日と大阪に帰ってお墓参りして、きょうだい揃ってお参りしてきました。もう丸18年!早いなぁ~f(^ー^;中学三年生やったもんなぁ~救急車に震えながら乗ったことや、母に病院から先に一人で帰らされて、お布団ひいたり親戚に電話してる間に、ニュース速報…。出るのが早すぎてビックリしたわ!(゜ロ゜;寝れなくて、朝イチのニュース見て泣いたなぁ…。新聞もテレビもどこを見ても父のこと…辛かったなぁ…見たくなかった…色んな事を、まだ鮮明に覚えてるなぁ…北野たけしさんが弔問してくれはったのに二階でウノしてて、知らなくて会えなかったとか…。そんなときにウノしてる場合じゃないのにね(笑)ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!もう辛くは無いけど、命日は毎年なんだかちょっと寂しいな…」, 知人から速報の流れる数時間前に「やっさんが亡くなった」と聞き、すぐに搬送先の病院にかけつけた。, 夜間の搬送写真も撮り、その時点では、完全なスクープだったが、吉本の木村政雄常務(当時=元やすきよのマネジャー)が共同通信に訃報を流した。, 暴力事件などでたびたび迷惑をかけた長男・一八が、通夜の時、棺に添い寝をしていた姿は強烈だった。. ちなみにそのとき、床屋の旦那は出征中だったとか(後に戦死)。 - ザ・テレビ演芸 - 笑いの王国 - バラエティー生活笑百科 - すてきな出逢い いい朝8時 - 三枝きよし興奮テレビ - ビデオあなたが主役 - 目玉とメガネ - 西川きよしのバンザイ家族 - 火の玉スポーツ列伝! - やすきよの腕だめし運だめし - スター誕生! 横山(木村)家の家訓のひとつに「嘘を付くことは殺人より悪い」というのがあったそうです。 2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。, 1969年11月に父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒、頭部を強打し7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に, 1973年に最初の妻と離婚。 1973年の春にテレビ復帰を果たすが、1977年4月に乗車したタクシーの運転手と口論になり、「お前ら、今でこそ運転手と呼ばれとるが、昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と吐き捨て、車に蹴りを入れ、運転手から侮辱罪で告訴された。, 1989年4月17日、愛車を運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性(58歳)に軽傷を負わせた。大阪府警が取調べた結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。事実上の解雇通告を言い渡された, 1992年に内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン! - シャボン玉プレゼント - プロポーズ大作戦 - スターに挑戦! - ツッパリやすしの60分 - ザ・テレビ演芸 - みんな気まぐれ日曜日 - 久米宏のTVスクランブル - 紳竜・さんまのスクープ一直線 - やっさんのはちゃめちゃ捕物帖 - 三枝・やすしの花マル家族 - クイズ! しかし、西川きよしはコンビ決別を拒否し、やすしの復帰を待ちます。 やすしが涙を流して会見した姿は有名ですが、「息子に対する教育は間違っていない」と発言しているのはそのためです。 また、横山やすしといえば、飲酒のイメージが強いですが、実は、酒はあまり好きではなく、強くもなかったそうです。 - 西川きよしのおしゃべりあるき目です - きよし・八方のポン♪カラ♪リン - きよし・黒田の今日もへぇーほぉー - M-1グランプリ, 西川ヘレン - 西川忠志 - 西川弘志 - 西川かの子 - 横山やすし - 木村政雄 - 西川のりお - 萩本欽一, やすし本人が把握していただけでも、最も多い時には1億5,000万円ほどにまで膨れ上がっていたという。, 『父・横山やすし伝說: 矛盾だらけの父親に溺愛されつつも翻弄された日々』 宝島社 木村一八著 2018年発売, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=横山やすし&oldid=79610765, 神の御前に身を委ねたる、○○殿の願いを叶えたま〜え〜(テレビ番組「プロポーズ大作戦」のワンコーナーで使うフレーズ), かわりべんたん、かわりべんたん(かわりばんこの代わりにこの語を好んで使う。由来はまったく不明。発音としては、かわりべったかわりべった), マンマンちゃん、あんッ! 結果、戸籍上ではタキヨが母になっているとのことです。 ちなみに、このとき一緒に試験を受けた友人の野中和夫は合格し、後に競艇界を代表する選手となります。 若い頃のダウンタウンが、番組内でやすしに酷評されたエピソードは有名ですが「晩年のやすし師匠はごっつええ人やった」と松本人志は語っています。 天才少年漫才師と呼ばれた少年の頃、「酒も飲めない歳のガキが偉そうにするな」と先輩芸人たちから言われたのを悔しく思っていたという説もあります。 - 爆笑ザ・ヒント - やすきよ笑って日曜日 - やすしの度胸一発 - 三枝やすし興奮テレビ→三枝きよし興奮テレビ - ワールドクイズ ザ・びっくり地球人! 血液型はB型。 生まれたときは未熟児だったとか。 横山やすしが亡くなって、はや18年目。月日の経るのは早い。子供は先妻の子供を含めて3人の子供がいる。長男、長女(雅美)、次女。長男は俳優の木村一八。末娘の光は漫才や舞台女優をめざしたが、今は滋賀の住職の夫人とし - ツッパリやすしの60分 - ザ・テレビ演芸 - みんな気まぐれ日曜日 - 久米宏のTVスクランブル - 紳竜・さんまのスクープ一直線 - やっさんのはちゃめちゃ捕物帖 - 三枝・やすしの花マル家族 - クイズ! - 爆笑! 漫才内では「チョンボのヤス」と呼ばれていました。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, マニアックな雑学が大好きな男です。 漫才界の伝説と言われる横山やすし。その死因とは何だったのか。度重なるアルコールによる事件や息子の暴行事件、吉本興業からの解雇、もう一度漫才をしたいという思いなど、横山やすしの壮絶な人生の伝説と晩年のエピソードを振り返りながら、その死因に迫る。 後がないきよしは何度も稽古することを望みましたが、練習嫌いで天才肌のやすしとは合わず、初めは喧嘩が絶えなかったと言われています。 息子の暴行事件については、世間的には息子が一方的にタクシー運転手に因縁をつけて暴行したという話になっていますが、事実は、とある有名俳優の息子がタクシー運転手とトラブルになり喧嘩になっていたのを助けたところ、やりすぎてしまったというのが真相とのことです。 Copyright © 2020 NEWSまとめもりー|2chまとめブログ All Rights Reserved. 数ヶ月して、沖ノ島からタキヨの元に実母、輝子がやって来ますが、情が移ったタキヨは輝子に子供(やすし)を返さなかったと言われています。 小柄で軽量(160センチ、47キロ程度)の自分にピッタリではないかと競艇選手に目をつけました。 ちなみに上岡龍太郎は「漫才の教科書」と呼ばれたコンビ、夢路いとし・喜味こいしとの対談本で「やす・きよの漫才は確かに面白いけれど、いとし・こいし師匠の漫才とはタイプが違う」と語っています。, 私生活では、二度結婚しています。 結婚後、経済的に苦しかった前妻とその子たちの状況を見かねて、やすしが子供たちを引き取りました。 一八自身は仕返しを考えたらしいですが、「家族の安全のために仕返しはするな」とやすしに言われ、思いとどまったとのこと。 そのため、ちゃんと師匠に付き、漫才の基礎を学びたいと考えたとか。, コンビを解散して路頭に迷っていた頃、横山ノックに声をかけられ内弟子になります。 横山やすしの娘(長女)にあたる。初妻(のちに離婚)との子。 木村一八(きむらかずや) 横山やすしの息子(長男)である。俳優。初妻(のちに離婚)との子。 木村ひかり(きむらひかり) 横山やすしの娘(次女)にあたる。漫才コンビ「さゆみ・ひかり」(相方は、宮川大助・花子夫妻の長女・宮川さゆみである)。エステティシャン。 なお、最後の弟子とされる「横山ひとし」は一時期、ビートたけしに引き取られ、オフィス北野に所属していたことがあります。 このとき、一八は「一体何人の愛人がいたのか?」と聞いたところ、「51人」とやすしが答えたのを聞いて、「意外と少ないな、俺のほうが多い」と思ったとのこと。 「国民がアホや」と言った発言は何度か取り上げられ、流行語ともなりました。, 1996年1月21日、アルコール性肝硬変で死去。 やすし自身もわかっていたとのこと。 1982年~84年 テレビ番組内での暴言、放送中にトイレ、泥酔状態での出演、番組に間に合わず穴を開ける→無期限謹慎処分 ただ、やすしの酒量が増えたのは、きよしが国会議員になってからのことらしく、やすしが破滅するきっかけになったのは事実かもしれません。 しかし、産後の肥立ちが悪く、輝子は子供を庄吉に預けたまま、沖ノ島に再び戻ります。 晩年は「キー坊ともう一度漫才をしたい」と口癖のように語っていたとか。, ビートたけしは死に際してのコメントで「やすしさんには芸も色気もかなわない。雲の上にいるような人だった」と絶賛。 天才、破滅型、トラブルメーカー、実は寂しがり屋だった……いろいろなことを言われながら、今も語り継がれる伝説の芸人、横山やすし。 このタキヨはやすしの息子木村一八の著書によると、後に遊郭の女将になったということです。 1978年には24時間テレビで大橋巨泉らと共に初代司会を務め健在ぶりを見せた。, 1980年(昭和55年)10月19日、やすしにとっては第三子(次女)となる光が誕生。やすしもその時、その喜びを色紙に書いた。, 1982年の秋から、日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発したことで問題になった(暴言の内容は冤罪に関しての『疑われる奴の自業自得や』だった)。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発し、まったくしゃべらなかったこともある。そして1984年11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組に穴を開けたため降板。吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。, 1986年にきよしが第14回参議院議員通常選挙に出馬し当選。コンビの仕事が出来なくなったやすしは酒の量が増え、趣味にのめりこむようになった。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けた時に「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。コンビ解散の噂については終始否定していたが、当選直後の対談番組でもきよしが「楽しみの少ない人のところに行ってでも漫才をやりたい」と語ったのに対し、やすしは「俺は他人のために漫才はせえへんよ」と不機嫌な表情で応対していた。その一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。やがて後述する度重なる不祥事とトラブルのために、やすしの芸人・タレントとしての価値は下落して行った。この件に関して上岡龍太郎は「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」という旨の発言をしていた。また当時のマネージャーだった大谷由里子(旧姓:松岡)は「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」と述べている[3][要ページ番号]。, 1986年4月に不摂生から吐血し緊急入院。退院会見で二度と飲酒しないとしていたが、翌1987年12月に『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ制作・日本テレビ系)で酒気帯びのまま出演し、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めたことは有名。これがとどめをさす形で番組を降板する。さらに1988年10月にも二日酔いを理由に『三枝やすし興奮テレビ』(毎日放送)の出演を直前にキャンセルしたために降板。, 1988年11月下旬、長男・一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕され、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡された。やすしは当初事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「おい、ねぇちゃん!俺は息子には厳しく教育してるぞ」「男は喧嘩する位が丁度ええ」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に対し一方的に暴行を加え(しかも被害者は一八を乗車拒否した者とは別人で、理由も一八が止まったタクシーへ全くお門違いな八つ当たりをしたためだった)、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に遭わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン」「自分の教育が間違っていた」と、自身の息子に対する教育の過ちを認めて号泣、その責任をすべて負う形で自ら無期限謹慎を申し出る。会見の直後に、少年鑑別所に収監された一八に面会した際は、「おい、反省せぇ」と言うのがやっとだったという。, 1989年3月芸能界に復帰し、きよしが司会をつとめる『すてきな出逢い いい朝8時』(毎日放送制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや。(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時すでに吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻、専属契約を解除する」と最後通告を受けていた。, 1989年4月17日にはコンビとして「MAGMA30」での二府四県対抗なんでもコンテストの司会を務めるも、その2日後の1989年4月17日、酒気帯び運転によりバイクとの人身事故を起こし、相手の男性(58歳)に軽傷を負わせた。事故直後の会見では、事態を余り重く見ていなかったやすしは「決して、わざわざ事故しようと思ってやったのと違いますので、ひとつ宜しくお願い致します」と語っていたが、その知らせを受けた吉本興業は、ついにやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。事実上の解雇[注 2] 通告を言い渡されたやすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と嗚咽しながら話した。, 当時、吉本の制作部長でマネジメント契約の解除を言い渡した木村政雄は報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたらうちとしても会社の姿勢も疑われますから」と語った。契約解除は中邨秀雄(当時・副社長)・林裕章(当時・専務)・木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだところ、「もうええ、もうよろし!」との一言であっさり決定したという。契約解除の通知書を発行したのも林裕章であった。, 吉本から契約解除を通告された10日後に木村から「お話したいことがありますんで、会社まで来てください」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。林正之助は当日体調不良で出社していなかったため、やすしは林正之助に詫びることが出来なかった。, やす・きよのコンビはやすしの契約解除以降、事実上解消状態となった。当時、中田明成に対し「漫才なんか誰とでもできるわい!」と息巻く反面、「やっぱり俺にはキー坊(西川きよし)しかおらへん」と語っていたという[2]。, 吉本との契約解除に伴い、完全に収入源を失ったやすしを支えるべく、啓子夫人はNHKの集金のパートタイマーとして働くなど、献身的にやすしを支え続けた。後にやすしは、苦労を掛け続けた啓子夫人への感謝の思いを込めて、自ら作詞した「一ッ星」という歌を贈っている。, 1992年に内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン! やすし死後の追悼番組で「最後まであのキャラクターは演技やったのか、本当やったのかわからんかった」と涙ながらに語っています。 有名俳優の息子をかばった形になっていて、そのことを聞いたやすしは一八に対し「よくやった」と言ったそうです。 若い頃、急に「飲みに行くぞ」と連絡が入り、島田洋七とともに千葉の大衆食堂のようなところに連れて行かれましたが、金を払わず置いていかれたそうです。 なお、実母輝子とやすしは何度か会っていたとのことです。 殺人は場合によってやむを得ない場合がありますが、嘘はほとんどが自己防衛のために付くもので必要性がないという理屈だったそうです。 - スター千一夜 - やすきよのスター爆笑Q&A - やすし・きよしのどっちがどっち? ちなみに麻雀で得意とする役は「七対子」だったそうで、しかも牌を2個ずつ分けて並べるので、何を狙っているのか丸わかりだったとか。 横山やすしの娘(長女)にあたる。初妻(のちに離婚)との子。 昭和の人物/人物の子孫を共有しよう! ツイート: 木村雅美の親・先祖. さゆみ・ひかりは、宮川大助・花子夫妻の長女・宮川さゆみ(一人っ子)と、横山やすしの次女・木村ひかりによる漫才コンビ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。2000年7月結成(吉本興業公式プロフィールによる)。, 1999年、アマチュアとして「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」に出場し福笑い大賞を受賞。吉本興業にスカウトされ、翌年12月に正式にデビュー。この「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」は宮川大助・花子、ダウンタウン、ナインティナインらも新人の頃に受賞したことのある由緒ある賞である。, ひかりは、父・やすしから競艇選手になれと言われて、プロテストを受けようとしたが、父と同じく視力が低かった為、親子そろって断念した。その後女優を目指し、1992年より生前にやすしが所属していた芸能事務所阪田エージェンシーに入り数本の映画にも出演。2007年1月にひかりが芸能活動を休業し、コンビ活動を休止。ひかりは休業中に日本エステティック協会認定のエステティシャンの資格を取得し、2008年3月に自宅の2階でエステサロン「さろん光」を開業した。ただしサロンの方は本業と両立できる様に予約制で営業しており、完全に芸能界を引退したわけではない。, 一方でさゆみは、母と弟弟子のたま子と共に「宮川家の女達」というトリオで活動等も行っている。, 現在は地道にコンビ活動を展開。「横山やすし13回忌追悼ウィーク」(2008年1月15日~2008年1月21日)のなんばグランド花月に出演。ひかりの父の13回忌を機にコンビ活動を再開。2008年4月には「ニューススクランブル」(讀賣テレビ放送)の特集で紹介された。, ワイドショー・プラスα - ラブラブダッシュ! 修学旅行に行った際、心配したやすしが旅行先まで仕事のふりをして追いかけて来て、偶然に出会ったようなふりをするので、驚いたことがあるそうです。 やすしにとって、八人目の相方でした。 番組内では編集されていますが、実際は一時間半ほど怒られていたそうです。 この間、笑福亭仁鶴や桂三枝(現・桂文枝)らと共演したことで、きよしの技量が鍛えられ、やすしへのツッコミが鋭くなったと言われています。 - サンデーお笑い生中継 - 婚約診断スイッチON - やすきよの結婚します! 一時はコンビ別れも考えたとのこと。 出生に関しては、非常に複雑な事情があるようで、やすし本人にも詳細はわからないということです。 生後すぐ木村庄吉という人物のもとに養子に出され、木村雄二と名付けられました。 なお、明石家さんまと島田紳助に関しては将来有望と見ていたとか。, 弟子は大勢いましたが、指導が厳しかったのでほとんどが辞めていき、最終的に大成したのはホラ吹き漫才で人気だった「横山たかし・ひろし」のふたりくらいと言われています。 こうなる宣言 - 緊急生放送! 最初の妻(澄子)との間には、長男で後に俳優となる長男(一八)と、長女(雅美)が生まれています。 しかし、やすしが実母の輝子に聞いたという話では、小田耕一郎という人物が本当の父(旅回り一座の男性と同一人物かは不明)で、この人物も出征して戦死したとのことです。, 中学生のとき、ラジオの素人参加番組で同級生と漫才を演じたところ評判となり、そのままプロの道に進みます。 透明剣士 - あゝ独身 - じゃりン子チエ(アニメ) - マンザイ太閤記(アニメ), ワイドショー・プラスα - ラブラブダッシュ! ちなみに後の相方、西川きよしも高知県出身(高知市)です。, ※別の著書によると、木村庄吉と小川輝子が堺市にいた頃、親しくなり、後に妊娠。 再婚した男性との間にひとり子供(女性)がいるらしく、木村一八自身は異父妹と異母妹がひとりずついる形になります。, 二人目の妻がテレビにもよく登場していた有名な啓子夫人で、二人の間には娘の光が生まれています。 その理由は、自分がどれだけ優れていても、相手の力量がないと生かされないし、相性の問題もあること、そして人気が出たとしても、手柄はふたりでひとつになるので損だという考えがあったらしいです。, 1970年    タクシー運転手への暴行、無免許運転→謹慎処分 結局、自分たちが払う羽目になったので、帰りの電車賃がなくなってしまい、ふたりで東京まで歩いて帰ったというエピソードを語っています。 1986年~88年 泥酔状態でテレビ番組内で大暴れ、出演キャンセルなど 「コンビ別れの名人」と呼ばれていたやすしの評判を聞いている周囲からは反対が多く、きよしは迷っていたとのこと。 大阪府堺市で育ちます。 !しごき教室 - 爆笑寄席 - おや!おや?親子 - あの町この町評判家族 - テレビ三面記事 ウィークエンダー - 相性診断!あなたと私はピッタンコ - この人あの人どんな人 - びっくらドン! 後にこの笹川会長から特別にアマチュアライセンスをもらい、以後、アマチュアのレースに参戦、優勝したこともあります。 - 象印ライバル対抗大合戦! 横山 やすし(よこやま やすし、本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。 1989年    復帰してわずかだというのに飲酒運転で人身事故を起こす→ついに吉本から解雇 ただし、生前やすしは娘に対して「漫才だけはするな」と語っていたとか。 なお、娘の光も競艇選手を目指しましたが、同じく視力が悪かったため、不合格になったとのこと。 その他、不思議とやすしに怒られた人ほどよく売れているという現象があったらしく、見る目があったのかなかったのかわかりにくい人だとも言われています。 やりすぎたことに関しては反省していますが、その有名俳優の息子が何も謝罪してこないのは未だに納得がいかないと、一八は著書に書いています。 1988年    息子、一八が未成年者ながら飲酒し、タクシー運転手に暴行を加え逮捕→自主的に謹慎 気遣いの人でもあったとか。 横山やすし(漫才師)家系図・家族 母親:輝子(生みの親) 前妻:俳優の木村一八(長男)と長女、雅美をもうけたが離婚 後妻:啓子(やすしの芸能界引退を挟み、逝去まで連れ添う) 子供 長男:木村一八(俳優) 長女:雅美 次女:木村ひかり(漫才師。さゆみ・ひかりを結成。母は後妻の啓子) しかし、新喜劇のスターだったヘレン杉本とすでに結婚していた西川きよしは、後がないという覚悟で漫才への転身を決意します。 ちなみに「横山たかし」というと、後のやすしの弟子「横山たかし・ひろし」のたかしが思い浮かびますが、この頃やすしは「横山やすし・たかし」というコンビを二回組んでいて、このときの「横山たかし」は、後の「横山プリン」と「レツゴー三匹の正児」です。, 芸人仲間から当時、吉本新喜劇にいた西川きよしを紹介され、やすしは何度も誘います(誰が紹介したかについては諸説あります)。 !データマッチ - おてんば宇宙人 - うちの子にかぎって…, 横山ノック - 木村一八 - 木村ひかり - 西川きよし - 木村政雄 - 野中和夫 - 佐野隆仁 - 萩本欽一, https://web.archive.org/web/20090912123522/http://www.daily.co.jp/gossip/marriage/2009/06/24/0002053513.shtml, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=さゆみ・ひかり&oldid=78137336. 横山やすし (よこやま やすし、本名:木村雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。身長163cm !シリーズ - おはよう!こどもショー - モーレツ! 新喜劇出身だけに芝居がかった話し方や動きになってしまうきよしを見て、それならばその動きを活かそうとします。 きよしは当選しますが、やすしは残念ながら落選。 「堺伸スケ」が後の横山やすしです。 自分が弟子として苦労しているだけに、いわゆる師匠を持たない若手に対して、反感を持っていたという説もあります。 - 満開!ピープルテレビ - 金曜超テレビ宣言! 輝子は空襲を避けるため、一時、沖ノ島に戻ります。 (秘)個人情報流出!よしもとランキング - 春一番!笑売繁盛, 仁鶴・きよしのただいま恋愛中 - 素人名人会 - わいわいワイド - パンチDEデート - 料理天国 - ピラミッドクイズ - 話題独占!全国歌謡ネットワーク - 反応ゲーム2つに1つ - クイズやじうまスコップ - ザ・わかるっチャー - あっぱれ外人 DONピシャリ!! 名古屋大須演芸場で当時全盛期だった「コント55号」と共演した際には、55号を食うほどウケたらしく、萩本欽一に強烈な印象を残したとのことです。 ダウンタウンの松本がゴッツええ感じで「横山やすし死ぬ!」といいながらセスナ機から飛び降りるコント放送した直後死んだって速報が入ったんだが... ものすごく神経質な人なのだろう。酒に溺れて破滅してしまった。本人やまわりはたまったものじゃないが、芸人としては、永遠に生き続けると言うこと。, ごめんくださいませ。岡山県倉敷市真備町やたの旧岡山県公立真備陵南高等学校の平成7年度の卒業生OBの皆さんが横山やすしの悪口放題しました。1996年1月, やっさん亡くなってから20年経つんだね…新人の頃のダウンタウンを罵倒してるとこテレビで見た覚えあるけど立場が逆転しちゃったねホント, やすしみたいな、周りに迷惑をかけまくったチンピラ、早く死んでくれて良かったわ。頭を殴られて記憶喪失みたいになってたけど、『自業自得ザマー』としか思わん。ダウンタウンに『お前らはチンピラ』みたいな感じで喧嘩を売った事もあったみたいだけど、自分が問題起こしまくりのチンピラだって事を認識してなかったんだろうな。認識してないから、あれだけ何度も問題を起こしたんだろうけどな。, まとめサイト「NEWSまとめもりー」を運営しています。芸能人の噂・世間で話題のニュース・おもしろネタを配信。, 引用元: http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1439042663/, 「毎度っ! 横山や。怒るでぇしかし!」──。日本一の天才漫才師・横山やすし(享年51)は波乱の後半生を送り、玉砕するかのように早世した。今なお関西を中心に人気は絶大。デビュー前からの「恩師」であるプロデューサーの澤田隆一氏が追想する。, 「漫才教室」(ABC)というラジオ番組に、本名の木村雄二で応募してきたけど、すでに天才だったね。彼の相方が何にもできない子だったから、木村君が1人で「ツッコミボケ」をやって、ネタも自分で書いていたよ。, 最初は「コンビ別れの名人」と言われるくらい、相方が定着しなかった。西川きよしさんに白羽の矢が立った時も、周りは「やめとけ」言いよったけど、きよしさんもヘレンさんに子供ができて、金が必要。それで組んだら、あっという間にトップに立った。, 不祥事も増加の一途。久米宏と組んだ「TVスクランブル」(日本テレビ系)では酔って暴言を吐いたり、ドタキャンをしたために降板。86年に相方が参院選で当選すると、さらに荒れていたように思います。, 選挙の話が出た時は「キー坊は絶対に選挙に行かへん!」と泣いて泣いて‥‥。結局、スポーツ紙で出馬が明らかになると「自分に言わんと新聞に先に言うた」とキレた。, 医者から「このまま飲んだら死にますよ」と。ただ「ビールならええでしょ」と言われて、ずっとビールばっかり。それから息子(木村一八)の件もあって謹慎を繰り返し, 酔った小松さんが「お前は正しい」と言うと、やっさんは「酒飲んで言わんでください」と照れくさそうに言った。ところが、その3日後にビール飲んで車を運転して、バイクに乗った男をはねてしまった。, あれでやっさんは糸が切れてしまった。何者かに殴られて、ロレツも回らんようになったけど、電話をかけてきては「キー坊と漫才やりたい」と言い続けてた。, 人生の前半でラッキーを使い果たしたけど、亡くなってもやっぱり人気があるのはやっさん。あれだけの天才というのは二度と出てこないでしょうね。, http://netallica.yahoo.co.jp/news/20150808-00010009-asagei, (よこやま やすし、本名:木村雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。, 1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。, やすしは1986年に仕事先の徳島県で吐血し、その時に医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にます」と酒を止めるよう警告されていたが、警告を無視して酒を飲み続け、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化し、入退院を繰り返していた。奇しくも前述の医師の『警告』通り、10年後の1996年にこの世を去る結果となった, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%97, 【新型コロナ】アメリカ「日本政府が感染広げた証拠、山ほどある」→ 結果・・・・・・・, 【速報】新型コロナ感染の千葉の20代男性、ネットに降臨して衝撃の事実を暴露→ 驚きの内容・・・, 【衝撃画像】女YouTuberさん、温泉入浴動画をアップしたら再生数爆増→ ご覧くださいwwwwww, 【衝撃画像】鼻パックしたんだが、なんか色々とれたぞ・・・これってヤバいのか・・・? (, 【狂気】12歳から6年間毎日痴漢に遭い続けた日本人女性のご尊顔wwwwww(画像あり), 女上司(30)「終電なくなっちゃったから泊めてよ」入社三年目ワイ(26)「いやです…」 → 結果, 【衝撃】NHKに映った女の子の手帳、彼氏とのヤバイ内容がwwこれはアカンww(画像あり), 【驚愕】エアコン30日間24時間フル可動した結果→こんだけの請求がwwwwww(画像あり), 【悲報】ワイ、金欠過ぎてブックオフの本をそのまま買取コーナーに出してしまった結果www. !』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。漫才を演じているときと何ら変わりない演技を見せ、活動の場をVシネマなどに移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、きよしら吉本所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや前述の契約解除の影響で不可能になっていた。その後、学歴詐称によって参議院議員選挙の当選を無効とされ、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。, 同年7月26日、第16回参議院議員通常選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務め、日本青年社などが関与する右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラム「ブラックアングル」で「虱(シラミ)の会」と揶揄された。落選の際に発言した「国民が、アホや!」は当時流行語となり、あちこちでパロディー化された。また記者が「(大阪府選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、自身は比例区の候補者で大阪府選挙区では立候補していないのにもかかわらず「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていた。しかし親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなくきよしに一票を投じたはずである」と口を揃える。なおこの選挙ではきよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。, その後8月6日、謎の暴行事件で重傷を負い、摂津医誠会病院に緊急入院した。犯人も襲われた理由も不明で、すでに時効が成立しており「迷宮入り」となっている。落選直後の事件であったため右翼団体や暴力団とのトラブルが当時盛んに語られており、一方で後に月亭可朝が語ったところによると、浮気相手の人妻にやすしが酔って電話したところ、その人妻の夫が電話に出たためにトラブルとなり暴行されたとしている[4][5]。この暴行事件でやすしは一時失語症となり表舞台から姿を消す形となったが、後に回復し復活を果たした。, 1993年、豊中市の大村崑の自宅に、今後の仕事の相談にと夫婦で訪問。やすしが「これからは夫婦で漫才をして行きたい」と話すが「それよりもまずは、君が元気でいることを世間に知らせる方が先決」と「やすしを囲む会」を提案。会には知人を含め約150人が出席したが、そのほとんどが競艇仲間で、大村と京唄子以外の芸人は誰も来ない寂しい会となった。大村はその後、やすしの葬儀で記者の問いに「生前は応援せず今になって」と怒りをぶつけたが、「大村崑が吉本に爆弾発言」との大村の思いとは別の記事になる。会には、きよしや桂三枝(現・六代目桂文枝)などの旧知の芸人も招待していたが、当時の社長だった中邨秀雄が吉本に所属する芸人や社員に対して「出席した場合は即刻契約解除、または解雇する」と圧力を掛けていたため、彼らは出席出来なかった[注 3]。, 1995年7月18日には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、実年齢に似つかわしくない高齢者のように老け込んだ風貌で、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。, さらにその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで、桂福團治と即興漫才を披露。これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と福團治に声をかけたという。, また、死去の3ヶ月前には、前述の通りやすしが唯一のアマチュアボートレーサーとしての弟子として教育や指導をし、野中と同じくやすしの勧めでボートレーサーとなった佐野からも連絡があり、互いに電話で競艇の話題をしたが、これがやすしと佐野との間の最後の会話であった。, 1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。, 病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。やすしは1986年に吐血した際、医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが、一切無視して酒を飲み続け、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が徐々に悪化していった。奇しくも前述の医師の『警告』通りに10年後の1996年にこの世を去る結果となり、関西のみならず全国にも衝撃を走らせ、翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。なお、たけしは当日 日本テレビで天才・たけしの元気が出るテレビ! さゆみ・ひかりは、宮川大助・花子夫妻の長女・宮川さゆみ(一人っ子)と、横山やすしの次女・木村ひかりによる漫才コンビ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。2000年7月結成(吉本興業公式プロフィールによる)。 しかし、初めは「天才少年漫才師」と評判でしたが、いわゆる「子供にしてはうまい」というタイプの芸であったので徐々に飽きられて行き、2年ほどでコンビを解散。 不世出の天才とも言われる、この方に関する雑学を集めてみました(文中・敬称略), 1944年3月18日、高知県宿毛市出身。 マネージャーたちがとりなして、最終的に応援に駆けつけたということです。 そして、なぜか1月末にもう一度堺に戻り、3月に雄二(やすし)を出産。 この頃は漫才師として一日の長があるやすしがきよしをリード。 天才、破滅型、トラブルメーカー、実は寂しがり屋だった……いろいろなことを言われながら、今も語り継がれる伝説の芸人、横山やすし。 不世出の天才とも言われる、この方に関する雑学を集めてみました(文中・敬称略) !』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。漫才を演じているときとは何ら変わりない演技を見せるなど、活動の場をVシネマなどに移す。, 1992年8月6日、謎の暴行事件で重傷を負い、摂津医誠会病院に緊急入院した。犯人も襲われた理由も不明で、すでに時効が成立しており「迷宮入り」となっている。, 人妻と不倫していて、それが相手の旦那にバレてボコボコにされたったのが例の事件の真相らしい。だから警察もちゃんと調べなかったし、やすしも言わなかったとか, 当時からみても、その破天荒ぶりは、あと30年早く生まれていたらっていわれていたな。, 最初の問題起こしたあと、元はやすきよ司会のローカル番組の公開録画を見に行ったことがある, 芸人なんてこれ位の方がおもろいわw普通とか真面目が芸人やって何が面白いんだかw芸人に常識とか求めてグズとか言ってるキモヲタどもの方がよっぽど頭おかしいわw馬鹿だろ?wこいつらw, 普通の奴が芸能界なんてはいらんわw頭おかしいか楽して大金欲しいとか目立ちたい奴だから芸能界に入るのに常識がないとか真顔でコメントしてる馬鹿の馬鹿さ加減に笑ったわw, まあ、前世代のダウンタウンみたいな人だな。この人こんな風に自滅しなかったらもしかしたらダウンタウンは今のようになってなかったかもしれないね。全盛期のダウンタウンと比べても全然負けてないバワーはやすきよにはあったな。, ダウンタウンよりもしかしたら凄かったかもよ。松本は今やすっかり守りに入り筋肉つけたり映画こけたりしてるがやっさんは50過ぎ(今の松本より年上)てもめっちゃ面白かったしハチャメチャでバワーあったからなwなにしでかすかわからない得体の知れないバワーがあった。ありすぎてこんな残念な最後になったけどお笑い芸人としては立派だったと思う。たけしや江頭すらこんな破滅的な生き方は出来ないと思う。もうこんな人出ないかもね。映画の勝新に芸人のやっさんは本当の芸人だったと思うわ。, 44じゃお前何万人も笑かしてみろよwお前はその凡人以下の下で収入も魅力も無いもないからただのゴミだろ?w悲しいアホだなw, 笑いのレベルやセンスなら多分今の人の方が上だと思うが何するかわからない。さすがやっさん!なんて期待やハラハラさせてくれる芸人は残念ながら今は余りいないよな。江頭ちゃんがかろうじてそれに近いけどやはり人の良さが出てきてしまいやっさんほどの迫力には足りない気がする。テレビの中だけじゃなく私生活まで横山やすしをしてくれたやっさんは凄いと思うね。長州力が俺は24時間長州力になれないが猪木さんは24時間アントニオ猪木でいられるのが凄いと言ってた意味がわかる。そこまで演じられる人はいないと思う。, 本当なら 久米宏と番組ディレクターが責任取らなきゃいけないのに全部やすしに被せていたね。久米宏が全部誘導して過激なセリフを引き出そうって番組構成だったんだぜ。, 47養護だなんだ糞つまらない叩きしか無いお前の方がよほどつまらんがwなんかおもろい事たまには書いてみろやw本当つまらねえなwお前w, 役者とヤクザは似てると言うが長生きするようなヤクザなんかヤクザじゃねえよw人が出来ない事やってるからみんなスゲー面白いとさも自分がやった気分にしてくれるのが芸人の仕事だろ。真面目に普通ならサラリーマンでも毎日体験してるからいらんわw, 52昔の芸人さんは無茶してなんぼだから身体悪くなるからお酒やタバコなんてやらないなんて人は多分恥ずかしいとされてたかもね。昔から施設はあるだろうし身体に気を使うような真面目な人ならお笑い芸人なんかならないかもね。プロレスラーや相撲取りでもビール何ケース空けただのおよそ身体には良くない武勇伝がいくつもあるから。, 芸人になろうとした段階でのたれ死んでも悔いはないと昔の人は思って入るんだろうね。ヤクザになる人が健康だの人生棒にふるだの考える人なら最初から入らないからw, ハジケリストだよ。ハジケて消えた。おもろかったよ。やっさん安らかに。多分しないけどw, 中1からとは思わなかったなwよっぽどお笑い好きだったんだろうなwお笑い好きだけどお笑い芸人になろうとは思わなかったわwよほど好きじゃないとこんな世界飛び込めないわwヤクザな世界だしw, やすしだからあそこまで庇ったんだが大人しくなっちゃやっぱり横山やすしじゃない。だからやっさんは横山やすしで死んで行ったと違うかな。吉本なんてヤクザだし普通やめるわな。最後まで横山やすしだったのはカッコいいと思ったけどあんな風にもなって欲しくなかったからジレンマに苦しむわ。, まあ、あそこまで大物になりゃ人生安泰なんだがそこで守りに入らないのが勝新であり横山やすしなんだよな。カッコいいけど無茶すんなよとか思うけどやっぱり暴れて欲しかったり複雑な気持ちになるわw, ビビりまくる他の芸人尻目にやすしや三枝相手に噛みついてく気概があったのがダウンタウンなんだよなwやっぱこれ位気が強くないと大物にはなれないのかもね。千代の富士と高花田の世代交代みたいな感じがした。これが同世代同士だったら凄かっただろうなw両方イケイケだからw, キヨシの方が実は怖いとかの噂もあるねw舞台袖でよく殴りあいの喧嘩とかしてたらしいwこの人の相方勤めるならそれ位のガッツないと勤まらないかもねw暴れ馬過ぎるからw, やっさんはお笑い好きだからダウンタウンみたいな正統派じゃない漫才は好かなかったかもね。ダウンタウンも面白ければチンピラの立ち話の何がいけないのか?ってだけで結局どちらもお笑い好きでスタイルが違うってだけだったって事だと思うけどね。本気ゆえに喧嘩になったと思った。世代の違いだけ。, 64普通は昔の漫才なんて当時いくら面白くてもつまらなくなるもんだが見て面白いと思ってくれる人がいるだけで十分凄いと思う。やっさんも多分嬉しがってると思うわw, さんまやたけしでも頭上がらない段階かなりの大物で才覚あるのは間違いない。やすきよいなかったら吉本はここまでデカくなってなかったと思う。りんかけ売れて集英社がビル建てたような貢献度だからハチャメチャやっても庇ってくれてたがやっさんはやり過ぎたって感じかな。, 66自己紹介か?w面白い事も書けずネットで匿名で叩きしか出来ない自分の事をクズっていってんのか?w悔しかったら年収何億だの何万人も笑わせるとかやってみれば?wお前に勝てるものなど一つもないか?w可哀想w, どっかで読んだが、新大阪駅の飲食街を歩いていたら横山やすしと出くわして、兄ちゃんら飯くいにいこや!って奢ってもらったとか。ウヤヤマシい, 異常にさみしやがりで若手を深夜自宅に連れて行って延々と色んなメーカーのボートのエンジン音が入ったテープ聞かせて、明け方ごろに「ほな、テストしようか~」ってのたまうおっさんだけどな, やっさんがボコられた原因は、不倫だのヤバい筋からやられただのあるが、実は殺人未遂事件をやらかした息子にやられたという説も個人的に捨てがたいw, 変わりがいない人だよ。ダウンタウンぽい芸人は沢山いるけど横山やすしに似てるお笑い芸人はなかなかいない。浜田が若干似てるがやっさんほど破天荒ではない。替えがきかないとか真似出来ないって事は凄い事だと思う。. 瀬戸内海の小さな島、沖ノ島の旅館で働いていた小川輝子と旅回り一座の男性との間に生まれた私生児です。 この頃、「横山やすし」の芸名をもらい、何人かとコンビを組んだが長続きしなかったとのことです。 また、やすしは個人事務所などを作っていませんが、愛国者であるやすしにとっては、節税さえ脱税という考えがあったからです。 ?」と怒鳴られたという。, 人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、八方破れな生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。, 木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんなことがあってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なモラルが要求されるんやないですか。もし今もタレント活動を続けていたら、おもろい奴で終わっていたと思いますよ」と語り、「シビアに言いますが、横山さんはすでに全盛期を過ぎていた。あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったら、クビにならんかったと思いますよ」と、心境を語った。, 関西の破滅型天才芸人としては戦前の初代桂春団治と並ぶ定型的存在となり、現在[いつ? 敬愛する明智光秀公の別名を名乗らせてもらっています。. !」と怒鳴り散らしてその場を後にし、後日吉本興業に向かい解散の旨を伝えると、吉本のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし、残った仕事してもらわんと困る」と諭され、スターだったヘレン杉本(西川ヘレン)との身分違いの結婚・寿引退をさせたきよしと、コンビ解散を繰り返すやすしという当時の二人の微妙な立場もあり、結局2人は思いとどまる。その時にきよしの発した「今後も小さなことからコツコツとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグとなった。, 2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、またきよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。それならばと2人は、動きがおもろい「どつき漫才」を目指すようになり、そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、また、デフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出した。やすしがどつかれて飛んだメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。また、それまでのやすしは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく交互に入れ替わる独特な「型破り漫才[2]」の基礎となった。稽古嫌いだったやすしがきよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。, 「やすきよ」はこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回上方漫才大賞の新人賞を獲得。これを契機にテレビ出演も果たした。同じく動きで笑いをとるネタを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」、ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることで視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年(昭和45年)には、第5回上方漫才大賞の大賞を、結成わずか5年にして受賞した。, そんな絶頂の最中、1969年(昭和44年)11月に養父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒、頭部を強打し、7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。, 翌年12月に最初の事件となる、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で、長期謹慎を受ける。傷害事件で実況検分に駆けつけた警察官に運転免許証の提示を求められ、「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで、肝心の免許証に関しては、答えに窮した結果無免許が発覚した。やすしが謹慎の間に相方のきよしはピン芸人としての腕を急成長させ、さらに司会者としての才能を見出し、きよし単独での番組も増えるようになった。次第にやすしきよしのパワーバランスも微妙に変化し、復帰後もきよしが司会、バーターでやすしという組み合わせになることも多くなった。, 1973年(昭和48年)の春にテレビ復帰を果たすが、同年に最初の妻と離婚。1977年(昭和52年)4月に乗車したタクシーの運転手と口論になり、「お前ら、今でこそ運転手と呼ばれとるが、昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と吐き捨て、車に蹴りを入れ、運転手から侮辱罪で告訴された。刑事事件としては大阪地検で不起訴になったが、後の民事訴訟で大阪高等裁判所は10万円の慰謝料支払いを命じた。, 1975年(昭和50年)3月に3歳年下の木村啓子(2008年〈平成20年〉、心筋梗塞により61歳で死去)と再婚し、堺市西区の大鳥大社で挙式した。仲人はノックである。啓子も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。啓子はやすしを「雄ちゃん」と呼んでいた。 !データマッチ - おてんば宇宙人 - うちの子にかぎって…, 横山ノック - 木村一八 - 木村ひかり - 西川きよし - 木村政雄 - 野中和夫 - 佐野隆仁 - 萩本欽一, ごごナマ(金曜日) - 秘密のケンミンSHOW - ありがとう浜村淳です土曜日です, オールスター感謝祭 - やすしきよしの夏休み - ザッツお台場エンターテイメント! これも横山やすしというイメージを守るための演技だったでしょう。, 1992年、暴行を受け、瀕死状態で発見された件について、今も誰からどういう理由で暴行を受けたのか謎とされています。 親子揃ってタクシー運転手と何かと相性が悪いですが、時代背景として、当時は態度が悪い運転手が多く、やすしが殴られることも何度かあったそうです。 横山 やすし(よこやま やすし、本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。, 西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。, 初妻(のちに離婚)との間に俳優の木村一八(長男)と長女[注 1] をもうけた。再婚した妻とはやすしの芸能界引退等を挟み、逝去まで連れ添った。エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかり(次女)は、後妻との子である。, 高知県宿毛市沖の島弘瀬の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。分娩を引き受けたのは、映画『孤島の太陽』モデルとして一躍脚光を浴びた伝説の駐在保健師、荒木初子(第1回吉川英治賞文化賞受賞)の助産師初仕事だったという説もあるが、やすし生誕の1944年(昭和19年)は太平洋戦争中で荒木はまだ産婆学校入学前であり、保健婦免許取得後の荒木の着任が1948年であることから誤りである。生後3か月で当時高知に疎開していた木村家に養子入りし、大阪府堺市(現:堺区)に育つ[1]。, 中学2年生の時、同年代の子がラジオ番組の歌合戦で合格したことが刺激となり、同級生の岡田好弘(後の堺正スケ)を誘ってラジオの素人参加番組『漫才教室』(朝日放送〈現:朝日放送ラジオ〉)に出演するようになった。同番組初出演は1958年(昭和33年)1月21日[2]。元々漫才などしたことなかった木村少年だったが、この番組で才能を発揮、元来勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、出場したことを契機に漫才師になることを決意した。生まれて始めてのネタは「僕は易者」という老易者を題材にしたものだった。同番組プロデューサーの狛林利男によるとコンビの芸風は「木村が一方的にまくし立て、相方はいつもオタオタしていた」というものであった[2]。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し、同級生からも拍手喝さいを浴びた。, 1959年、堺市立旭中学校卒業後、木村と岡田は少年漫才師として、揃って松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、秋田の弟子・藤井康民によって[2]「堺伸スケ・正スケ」と命名される。木村は「漫才の世界で“伸びたい”」との思いを込め「堺伸スケ」となった。同年5月11日に角座でデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。ネタは学校の話題を振っていたためあまり受けず、やすしは後に著書『やすしの人生一直線』において「子供の発想で、子供の言葉になってしまう」、「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」と述懐している。, 堺伸スケ・正スケは角座デビュー後2年経った1961年[2]、相方の正スケの廃業に伴い解散。見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子になった。師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。, 「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。ノックから新しい相方(後のバラクーダの岡本圭司)を世話されるが、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターを使った白タクを行い、生活費を稼いだという。この頃は喫茶店で他人の会話を聞いてノート(ネタ帳)に書くなどネタ探しに懸命だったが、相方と温度差が生じ、数回(少年時代を除くと3回という)コンビ結成・解散を繰り返すことになった。周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身にも迷いが生じ、廃業寸前まで追い詰められた。当時の相方は、年上だが弟弟子の横山プリン、レツゴー正児(何れも芸名は『横山たかし』)など。, 西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。きよしは当時はまだ研究生扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇の脚本家の壇上茂が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったりと、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。, 結成当初はコンビ仲が悪かった。漫才作家の中田明成いわく、やすしには「台本を二回読むだけで漫才の“流れ”をつかんでいた[2]」と舌を巻くほどの飲み込みの良さがあったため、「読み合わせでも十回以上しなければ気がすまない」きよしには「稽古嫌い」と映り[2]、コンビは稽古のことでしばしば揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもあった。やすしは「解散や!!

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