死に 至る病 そして

©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission. Kindle 端末は必要ありません。無料 Kindle アプリのいずれかをダウンロードすると、スマートフォン、タブレットPCで Kindle 本をお読みいただけます。, 「死に至る病」とは絶望のことである。憂愁孤独の哲学者キェルケゴール(1813‐55)は、絶望におちいった人間の心理を奥ふかいひだにまで分けいって考察する。読者はここに人間精神の柔軟な探索者、無類の人間通の手を感じるであろう。後にくる実存哲学への道をひらいた歴史的著作でもある。, 全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。, さらに、映画もTV番組も見放題。200万曲が聴き放題 「死に至る病」の書かれた目的はというと、、、 読者をキリスト教の信仰へ導くこと。 これが、「死に至る病」の書かれた目的です。ですので、至るところに神を信じること、そしてキリスト教徒であることの素晴らしさが描かれています。 「人間はより大なる危険を怖れているときに、いつもより小なる危険のなかに入り込んでいく勇気をもつものである、――もし人間が一つの危険を無限に怖れるならば、ほかのものは全然存在しないも同様である。ところでキリスト者の学び知った怖るべきものとは、『死に至る病』である。」, 人間の自己とは、「自己自身に関係するとともにかかる自己自身への関係において同様に他者に対して関係するところの関係」である。, 「もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合にはただ絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱かれ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう、――絶望して自己自身であろうと欲する形態などは問題になりえないはずである」, 「もし絶望状態にある人間が、自分では自分の絶望を意識しているつもりでおり、そしてむろん絶望のことをどこからか落ちかかってくる災難みたいに話したりするような馬鹿なことはせずに、〔中略〕自分ひとりの全力を尽くして自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、彼はなお絶望のうちにあるのであり、自分ではどんなに絶望に対して戦っているつもりでいてもその苦闘はかえっていよいよ深く彼をより深刻な絶望のなかに引きずり込むことになるのである。」, 「この病に罹りうるということが人間が動物よりも優れている点である。それは人間が直立して歩くということなどよりも遥かに本質的に人間の優越を示している、なぜならそれは精神であるところの人間の無限の直立と昂揚を意味しているからである。」, 「かくて絶望することができるということは無限の優越である、――けれども現実に絶望するということはただに最大の不幸であり悲惨であるだけでなく最大の堕落ですらある」, 「病の持続は彼がかつて一度病を自分に招き寄せたことの単純な帰結でしかない。病の持続の原因を瞬間ごとに病者に帰することは許されない」, 「しかし絶望はこれとは異なる。絶望の現実的な各瞬間がその可能性に還元せられるべきである、――絶望者は彼の絶望している各瞬間に絶望を自分に招き寄せているのである。絶望はいつも現在的な時間のなかにある、そこでは現実の後に取り残されてしまうであろうようないかなる過去的なるものも姿を見せない、――絶望の現実的なおのおのの瞬間に、絶望者は一切の過去的なるものを可能的に現在的なるものとして身に引き受けるのである」, 絶望は肉体的な死によって終わるものではない。そこでは、死という希望さえも失われている。, 「さてこの究極の意味において絶望は死に至る病である、――自己のうちなるこの病によって我々は永遠に死ななければならぬ、我々は死ぬべくしてしかも死ぬことができない、いな我々は死を死ななければならないのである」, 「その最深の内容に動揺・軋轢・分裂・不安の存しないような人間は一人もいない、―――不安、知られざる或る物に対する不安、それを知ろうとすることさえも何となく怖ろしいような気のする或る物に対する不安、生存の或る可能性に対する不安或いはまた自己自身に対する不安、かかる不安の存しないような人間は一人もいない」, 通俗的な見解が見逃しているのは、自分が絶望していることに気づいていないこともまさに絶望の一つの形態に他ならないという点である。, 「絶望が顕になるや否や、その人間は始めから絶望していたのだということもまた顕になるのである」, 「本当に絶望していない〔もはや絶望していない!〕人というものは確かに非常に稀にしか見出されないのである」, 本当に人生を空費しているのは、「人生の喜びや煩いに心惑わされて、永遠的な決断のもとに自己自身を精神すなわち自己として意識するに至らずして日々を過ごしている人」である。自身が「神の前に現存していることに気づいて、最深の意味でそれを痛感するに至ることの決してない人」である。このような無限性の収穫は、絶望を通じて以外には決して到達されえない。, 「ああ、もしいつか砂時計が、人生の砂時計がめぐり終わるときが来るとしたら、――そしてこの世の喧騒が沈黙し、せわしない暇つぶしの営みが終わりを告げ、君の周囲にあるものすべてがあたかも永遠におけるが如くに静まりかえるときが来るとしたら、――そのときには君が男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏であったか、人の世話になっていたか独立していたか、幸福であったか不幸であったかというようなことはすべて問題ではない」, 「永遠が君に問うこと、これらの数知れぬ幾百万の人々の一人一人に問うことはただ一つである、――君は絶望して生きていたかどうか、君は君の絶望に少しも気づいていないような状態で絶望していたか、それとも君の病を君を咬む秘密として君の心の奥底に秘めて生きてきたか、罪深い愛欲の果実としてそれを君の胸の下に抱いて生きてきたか、それともまた絶望に耐えかねて凶暴となり他人の恐怖の種となるような仕方で生きてきたか。もしそうだとしたら、もし君が絶望のまま生きてきたとしたら、よしその他の点で君が何を獲得ないし喪失したとしても、一切が君には喪失されてしまっているのである。永遠は君を受け入れない、永遠は君を知らないというのだ!或いはもっと怖ろしいことには、永遠は君を知っている、君の知られている通りに君を知っている、――永遠は君の自己を通じて君を絶望のなかに釘付けにするのである!」, 自分が永遠的な自己というものを持っているということに関する絶望的な無知。一般に人間は、快・不快の立場に生きており、自分が真理との関係にあることを最高の善だとは思っていない。彼らは、「真理の光に照らして考えると実際は不幸なのにもかかわらず、或る人間が自分では幸福であると思い込んでいる場合には、彼は大抵の場合こういう誤謬から引き離されることを決して望まない」が、「この形態の絶望(ひとが自らそれと知らずして絶望していること)は世間では最も普通なことである」。, ここでは、絶望は純粋に外から受ける悩みでしかない。なぜなら、「彼を絶望へと追いやった一切の外的なものが消え失せ、彼の願いが満たされることにでもなれば、彼は再びよみがえる」であろうから。絶望とは永遠的なるものを喪失することであるが、彼は「この喪失のことなど夢想だにしない」のである。, また彼は、「自己自身を全く文字通りに上着だけで知っているにすぎない」のであって、「自分のもっている自己というものをただ外面性だけで認識している」。, ここでは絶望者は、絶望することが弱さのせいであることを自分で理解している。そしてついには、「自分の弱さに関して絶望」し、「これによって全視点が転換される」ことになる。, 「いまや絶望者は、自分が永遠なるものについて、すなわち自己自身に関して、絶望しているのであること、自分は地上的なるものにあんなに大きな意味を賦与するほどに本当に弱い人間であったということ、に気づいている。ところがいまや絶望者にとってはまさしくそのことが、自分はもう永遠的なるものと自己自身とを失ってしまっているのだという事実を示す絶望的な表現となりうるのである」, しかしこのような永遠的なるもの関する絶望は、「自己のうちには何かしら永遠的なるものが存するということ」なしには不可能である。, 更にまた、ここでの絶望は、「単なる受動的な悩みなのではないしに、ひとつの行為」である。, このような絶望者が信仰に至ることなしに、何故に自分が自己自身であることを欲しないのかという理由を意識するとするならば、強情が出現する。絶望して自己自身であろうと欲しないのは、まさに、絶望して自己自身であろうと欲しているちょうどそのためである。, いまや絶望は「外界の圧迫のもとにおける受動的な悩み」ではなく、「自己の行為として直接に自己から来る」ものである。, このような絶望者は、地上的なる苦悩が取り除かれるという可能性に決して希望を持とうとしない。誰が彼に救いを与えようとしようとも、彼はそれを断じて受け入れようとしない。彼は「自己の苦悩をもって全存在を拒絶しうるように苦悩をもったままの彼自身であろうと欲する」のである。, 「弱さに絶望している者が、永遠が彼にとって慰藉であることなどに耳を傾けようと欲しないように、強情における絶望者もまた永遠の慰藉などに耳を傾けようとは欲しない」, 個人が没個性化・大衆化・水平化・画一化された現代においては、無責任な傍観者が横行し、量が質に優先して、主体的情熱が失われている。, ・挫折を知らず無反省的に生きる人は、自らの絶望にすら気づかず、絶望的な無知の状態にある。, ・絶望を自覚しながら、永遠なるものとの関係を拒む絶望は、神にそむく「罪」に他ならない。, ・絶望は、人間だけが陥る最も高貴な「病」であり、挫折の苦悩を跳躍台として、人間が本来的自己に目覚め、真の救済に到達し得る「薬」でもある。, 世界観の体系や客観的真理よりも、絶望を克服しうる「私にとって真理であるような真理」を求める。, 「私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということに対して私自身に決心がつかないでいることなのだ。それは私が何を認識するべきかということではない。・・・私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、それのために死にたいと思うようなイデー〔理念〕を発見することが必要なのだ。いわゆる客観的な真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう」, 無責任な享楽によって人生の不安から逃避する。束縛と闘って享楽の可能性を追うが、現実の自己を見失い、倦怠にとらわれて挫折する。, 普遍的な人間性の実現に安心を求める。なるべきものになろうとする良心的な道。誘惑と闘って責任を果たそうとするが、自己の有限性に直面して挫折する。絶望は、自己を有限なものとして措定した神へと直面させ、信仰への飛躍を可能にする。, 自殺者は、絶望して自己を放棄するものである。絶望か信仰かの岐路では、絶望は罪である。自己自身で自己であろうとする自己を断念し、自己を根源的に規定する神に帰依して自己を受け取り直す信仰が、絶望から自己を救済する。神の前では、主体性が虚偽(罪)に転化するのである, ・信仰とは、客観的な法や普遍的な道徳によっては正当化されえない、情熱である。普遍的な人間性を断絶し、真に自己に目覚めた実存は、「神の前の単独者」であり、社会における「孤独な例外者」となる。, ・自己が神・本来的自己との関係を喪失した状態が絶望である。実存とは、絶望を契機として、自己が自己に向かう過程である。, Sign in|Recent Site Activity|Report Abuse|Print Page|Powered By Google Sites.

『死に至る病』(しにいたるやまい、デンマーク語:Sygdommen til Døden)は、1849年にアンティ=クリマクス(Anti-Climacus)と言う偽名を用いてコペンハーゲンで 出版された デンマークの哲学者、思想家 セーレン・キェルケゴールの哲学書。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」である 。 。クラウドに好きなだけ写真も保存可能。, このショッピング機能は、Enterキーを押すと商品を読み込み続けます。このカルーセルから移動するには、見出しのショートカットキーを使用して、次の見出しまたは前の見出しに移動してください。, キリスト教信仰というより「単独者」という在り方に関心があり読んでみたものだが、信仰についてはパスカルの『パンセ』よりは共感できた、というのも神が情に感じられるというより論理的な説明になっているからだろう。ただ著者の実人生を離れてキリスト教とは距離をおきつつ読むこともできる。理解のためには弁証法といった哲学的概念も必須となっている。, "無限になったつもりでいる人間の生き方、あるいはただ無限でのみあろうと欲する人間の生き方はすべて、いや、人間の生き方が無限になったつもりでいるかあるいはただ無限でのみあろうとする瞬間瞬間が、絶望なのである。"1849年発刊の本書は、ヘーゲルの理性論批判で知られる実存主義の始まり的な一冊。, キルケゴールの人生に興味がわいて読んでみていますが難しくって今悪戦苦闘中です。読み切りまでどれくらいかかるのであろうか。, わかる。と言いたいところであるが内村鑑三「デンマルク国の話」を読んで、デンマークに行ったから読みたくなったまでで、難解である。したがってこのレビューは後日書き直すが、手に取ってほしい一冊であるがゆえに記す。, 一昔前まで、キルケゴールは実存主義哲学者の代名詞であり、本書『死にいたる病』は最も有名な実存主義哲学書の一冊であった。昨今における人気の凋落は否めないが、今改めて読んでみると、キルケゴールがハイデッガーやサルトル等の後世の実存主義に与えた計り知れない影響を思い知らされるような気がする。, キルケゴールの死に至る病は、西洋思想の歴史の内に燦々と輝く、ある意味で最も哲学的かつ宗教的、仏教的、求道的な思想だ。, 商品詳細ページを閲覧すると、ここに履歴が表示されます。チェックした商品詳細ページに簡単に戻る事が出来ます。, © 1996-2020, Amazon.com, Inc. or its affiliates.

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