洗礼者ヨハネ 指

Vasari, Boltraffio, Castiglione, "Anonimo" Gaddiano, Berensen, Taine, Fuseli, Rio, Bortolon. Copyright (C) Salvastyle.com - ++ All Rights Reserved. お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, http://en.wikipedia.org/wiki/John_the_Baptist, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F% …, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92% …, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B3% …, http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2011/ …, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE% …, 将来は世界史教師になりたいです。大学では西洋史を勉強したいと思っています。関西で歴史を学べる大学はあ, 日本史A,Bについて現在高校2年生で日本史Aを勉強しているのですが、3年生から日本史Bを勉強するこ, 同志社大学を受験しようと思っている高2です。 世界史か日本史どちらをとるか悩んでいます。世界史は全く, 世界史or日本史のセンター試験についてです。 今、学校で勉強しているのは世界史aなのですが、 センタ, 理系に進学する者です。 高校に入ってから、ずっと疑問なんですが、 日本史や世界史って勉強する必要あり. The Science of Leonardo; Inside the Mind of the Genius of the Renaissance. 洗礼者ヨハネとは、新約聖書に登場する預言者のことで、 ヨルダン川にてイエス・キリストに洗礼を授けました。 “バプテスマのヨハネ”、”洗者ヨハネ”などとも呼ばれます。 『洗礼者ヨハネ』 天を指す人差し指の意味① | レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋~最後の晩餐にご招待, レオナルド・ダ・ヴィンチが、絵の中で「天を指す人差し指」のポーズを描いたのは、これまでに3作品ありました。, 人差し指・・・は、普通、洗礼者ヨハネがイエスに向かって「見よ、神の小羊。」と言った福音書上の場面を表現するポーズとして出来たものです。, ですので、普通の絵では洗礼者ヨハネが人差し指を使ってイエスを指し示す構図となっています。, しかしダ・ヴィンチは、イエスを直接指さしするポーズではなく、指の方向を天に向けています。, 絵の中に、イエス(神の小羊)が1人しかいないのであれば、人差し指を使ってイエスを示す事が出来ます。, 『マギの礼拝』では、イエス(神の小羊)が、中央に存在しているにも関わらず、直接指さしするのではなく、後方の木の陰からと、手前群衆の中に天を指す人差し指が2つ描かれています。, イエスの隣に、洗礼者ヨハネがくることによって、反対隣のヨハネがマグダラのマリヤに変化するのです。, ヤフーブログ廃止のため、ヤフーブログへのURLはリンクを解除・または削除しました。2019.8. 洗礼者ヨハネの死: 29 第6章 30節-44節 満たしてくださる主: 30 第6章 45節-56節 逆風の中での主: 31 第7章 1節-13節 神の言葉を無にしない: 32 第7章 14節-23節 中からのものが人を汚す: 33 第7章 24節-30節 パン屑を求める信仰: 34 第7章 31節-37節 耳を開いてくださる主: 35 右手で指を指すポーズといえば、洗礼者ヨハネを描いたダヴィンチの他の絵画で、ヨハネは右手で天を指さし、時に左手で地を指して、天からの救世主キリストの到来を告げる場面を描いた作品が思い出さ … ‚é‚悤‰÷œ ‚ðà‚¢‚Ä‚é‚ƉðŽß‚³‚ê‚Ä‚¢‚éB, ô—çŽÒ¹ƒˆƒnƒl‚ªg‚É“Z‚Á‚½‚Æ‚³‚ê‚é–Ñ”çBƒtƒ‰ƒ“ƒX‚ÖŒü‚©‚Á‚½”Ó”N‚̃ŒƒIƒiƒ‹ƒh‚ªw. 右手で指を指すポーズといえば、洗礼者ヨハネを描いたダヴィンチの他の絵画で、ヨハネは右手で天を指さし、時に左手で地を指して、天からの救世主キリストの到来を告げる場面を描いた作品が思い出さ … — ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』, 画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者バルダッサーレ・カスティリオーネは1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし[111]、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している[112]。しかし17世紀から18世紀に至ってはその名声は埋もれっていった。ミケランジェロやラファエロ、ティツィアーノの圧倒的な影響力と比較すれば、レオナルドの存在感はほぼなかったと言ってもよいほどであった。, 19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家ヨハン・ハインリヒ・フュースリーが1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった[113]。A. Mann)は著書『マタイ』の中で、ホセア書において鳩がイスラエルの象徴として用いられていることに注目している。ギリシャ文化では鳩は清純さの象徴であると同時に愛の神アフロディテの象徴とされていた。福音記者が鳩にこめた意味はもはや知りえないが、聖霊を鳩で表現する方法がこの箇所に由来していることは間違いがない。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イエスの洗礼&oldid=74180152. 《洗礼者聖ヨハネ》は、画家のレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。制作年は1513年から1516年で、ルーヴル美術館に所蔵されている。, 1513年から1516年に制作されたダ・ヴィンチ晩年の作品である。この作品と《モナリザ》、《聖アンナと聖母子》は生涯手元に置き加筆を加えていたことでも知られている。, モデルは弟子の一人でもあったジャン・ジャコモ・カプロッティであるとされる。洗礼者ヨハネは都市生活から離脱し各地を放浪しながら市民に神の審判が下ることを解いていた。, その悔い改めのために洗礼を施していたが、ヘロデ王により斬首の刑に処されてしまう。ダヴィンチは多くの作品に人差し指で天を指差すポーズを取らせているがこれはキリストの到来を予告する悔悛を説いてるとされている。, 代表作である《最後の晩餐》、《マギの礼拝》内においても天を指差すポーズは数多く見られておりダヴィンチの信仰心の高さを伺える。この当時、ダヴィンチは父の死とその相続による兄弟間のいざこざに腐心しており失意の中フランソワ1世の招きによりローマを去り、フランスに移り住んでいる。, ダヴィンチが最後までこの作品を手元に残しておいたのかは理由は定かではないが、ダヴィンチが残された人生の貴重な時間を注いで描かれた1枚であり、そこに安らぎや安寧を求めつつも人体への追求心を感じさせる作品となっている。現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている。, こちらで、ぜひ本作品の感想やエピソードを教えてください。作品に関する質問もお気軽にどうぞ。. イエスの洗礼(イエスのせんれい)とは新約聖書の福音書にあらわれるイエス・キリストの生涯のエピソードのひとつで、ヨルダン川において洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事。キリスト教の洗礼の儀式のもととなった『ルカによる福音書』と『マタイによる福音書』ではイエスの幼年時代の記述が異なり、『マルコによる福音書』に至ってはイエスの幼年時代についての記事を一切省いているが、これらの共観福音書はどれもイエスの洗礼に関しては同じような内容の並行記事となっている。マタイもルカもイエスの幼年時代の記述からいきなりイエスの洗礼に話が飛んでいる。ルカによればイエスが洗礼を受けたのは30歳のころだったという。, 共観福音書でイエスの洗礼の記述はどれも同じような組み立てになっている。初めに洗礼者ヨハネが紹介され、彼の言葉と洗礼の儀式について述べられる。次にイエスがヨルダン川にやってきて洗礼を受ける。そのあと天がひらけてイエスこそ自分の子であるという神の声が聞こえる。これがイエスの公生活の始まりとされている。共観福音書であっても細かい異同はあるが、ほとんどのキリスト教派においてイエスの生涯における重要な出来事のひとつとみなされている。カトリック教会で唱えられるロザリオの祈りのうち、光の神秘のひとつがこの「イエスの洗礼」になっている。, 洗礼者ヨハネはユダの荒れ野で教えていたという。ユダの荒れ野というのは死海から高地へあがった乾燥した地域で人はあまり住んでいなかった。荒れ野という言葉がしばしば砂漠と同義にとられることがあるが、砂漠ほど乾燥していたわけではなく、放牧が行われていた。プリニウスはこの地域がエッセネ派の暮らす地域であったといっており、実際に洗礼者ヨハネがエッセネ派の指導者の一人であったという説もある。聖書学者ドナルド・グスリー(Donald Guthrie)によれば、当時都市よりも荒れ野のほうが神に近い場所であると考えられていたという。, 福音書によればイエスはヨルダン川でヨハネと会ったとされる。イエスの洗礼の場所とされてきた区域のひとつは、アレンビー渓谷の南、カシール・アル・ヤフドとよばれるヨルダン川の西岸である。現代ではここに正教会の修道院があるが、イスラエル軍の軍事監視区域となっており、一般人の立ち入りが制限されている。だが、イエスにゆかりのあるヨルダン川で洗礼を受けたいという人々が多く集まるため、一部に開放区域が設けられている。同じ区域のヨルダン川東岸も古代よりキリスト教徒たちに尊重されてきた。ヨルダン政府観光局は東岸こそイエスの洗礼の場所であると宣伝しており、実際に東岸の遺跡アル=マグタスはイエスの洗礼の地として2015年に世界遺産リストに登録された。, ルカ福音ではイエスは群集の一人としてヨハネのところへ赴き、洗礼を受けている。マタイ福音ではイエスの洗礼の場面ではイエスとヨハネ以外の登場人物はあらわれない。ルカとマタイではヨハネはファリサイ派とサドカイ派批判ととれる言葉をもって登場する。この批判はルカとマタイに固有のもので、二つが参照したと考えられるマルコ福音にはそのような批判は見られない。, マタイとルカでは、ヨハネは登場するや集まった人々を「まむしの子ら」と非難し、改心を求める。マルコにこのような箇所がないことから、このヨハネの言葉はQ資料に由来していると考えられている。ただ、マタイとルカでも違いはあり、ルカではヨハネが人々全体に非難の言葉を向けるが、マタイはファリサイ派やサドカイ派に限定している。ある学者たちによれば、ヨハネに近づいたファリサイ派の人々というのは決してヨハネに心酔したからではなく、自分たちの権威を脅かすものと警戒し、調査しようとしたためヨハネに非難されたという。歴史的にみればこの時期にファリサイ派とサドカイ派が共同してあらわれるというのは考えにくい、というのは神殿崩壊前の時期、両派はユダヤ人の中での主導権を握ろうと激しく対立していたからである。, なぜマタイはヨハネの非難を特定の人に向けたのだろうか。エドゥアルド・シュバイツァー(Eduard Schweizer)はマタイがルカと違ってユダヤ人を読者として想定したため、ユダヤ人全体を批判するような記述を避けたかったのではないかと考えた。そこでマタイ福音書の成立時にキリスト教徒と激しく対立したファリサイ派にその矛先を向けさせたというのである。もちろんすべての学者がこの考え方に同意しているわけではなく、単に「ファリサイ派とサドカイ派」という言い方でユダヤ人を総称しただけという見方もある。, 「まむしの子」という言い方はおそらく創世記(3:14)に由来すると思われる当時の悪口の定型句であった。「まむしの子」という言い方で相手を罵倒する表現は、ここから生まれ、シェークスピアが『トロイラスとクレシダ』で用いているし、サマセット・モームの書いた『カタリナ』にも用例が見られる。, ルカの中ではイエスは単に群集の一人としてヨハネのもとにいき、ヨハネかあるいはその代理の人から洗礼を受ける。マタイとマルコではイエスはヨハネのもとに直接おもむき、ヨハネ本人から洗礼を受ける。マタイ福音書ではヨハネに対してイエスが語る言葉がイエスの最初の言葉になる。伝統的にマタイは新約聖書冒頭に置かれていたため、このイエスの言葉が新約聖書で最初のイエスの言葉となってきた。このことから聖書学者たちはこのイエスの「第一声」を重要なものとみなし、熱心に研究してきた。マタイの中で、イエスは「ヨハネから洗礼を受けるのが正しいこと」だという。これはなぜイエスがわざわざ洗礼を受ける必要があったのかということを説明するために後から付加された言葉だと考えられている。, 「正しいこと」というのはマタイの中では重要な概念であり、「神に従うこと」と同義である。マタイは同時に予言が「成就した」という言い方をするが、イエスが正しいことを行うことこそが神の意思の成就であるという位置づけをしているといえる。, またヨハネが罪のきよめのしるしとして行っていた洗礼をなぜ罪のないイエスが受けたのかという疑問に対しては伝統的に次のような答えが与えられてきた。, 第一はイエスが、人間にとって洗礼がいかに大切なものであるかを示すために受けたというもの。 レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画作品《洗礼者聖ヨハネ》の解説。本作品は1513年から1516年に制作され、ルーヴル美術館に所蔵されている。 [11] [注釈 5]。, レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる[10]。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。, レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている[13]。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった[14]。 Publisher: J.M. Vitruvian Man is referred to as "iconic" at the following websites and many others: His birth is recorded in the diary of his paternal grandfather Ser Antonio, as cited by Angela Ottino della Chiesa in, Codex II, 95 r, Victoria and Albert Museum, as cited by della Chiesa p. 85. [注釈 23]。, その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない[注釈 24]。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している[86]。ルネサンス期に制作された板絵としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない[87]。, 自然の風景の中に人物像を描くという『聖アンナと聖母子』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており[88]、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている[19]。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、アンドレア・デル・サルトらにも影響を与え[89]、さらにはその弟子であるヤコポ・ダ・ポントルモ、コレッジョらにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家ティントレットやパオロ・ヴェロネーゼらが好んで採用した。, レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その手稿にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。現存するデッサンは900種とも言われている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある[90]。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている[13][90]。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『ウィトルウィウス的人体図』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城ロイヤル・コレクション)、160cm ×100cmの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある[90]。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている[91]。, 実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「カリカチュア」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している[92]。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある[注釈 25]。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある[90]。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺されたパッツィ家の陰謀に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである[90]。このスケッチにはレオナルドが流麗な鏡文字で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。, 以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 (Universally accepted)」、あるいは「ほぼ真作 (Generally accepted)]とされている絵画作品である。, 『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』、1476年 - 1478年頃(諸説あり)、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート, 『リッタの聖母』、1481年 - 1497年頃(諸説あり)、エルミタージュ美術館、他者との合作という説もある, 『ミラノの貴婦人の肖像』、1496年 - 1497年頃(諸説あり)、ルーヴル美術館, 『糸車の聖母』、1501年 - 1507年頃(諸説あり)、2点のバージョンのうち、スコットランド国立美術館(バクルー公爵家からの貸与絵画)所蔵の作品で他者との合作という説もある, ルネサンス人文主義では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった[19]。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と自然哲学が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた[19]。, レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。レオナルドは左利きであり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる[注釈 26]。, レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在ではウィンザー城のロイヤル・コレクション、ルーヴル美術館、スペイン国立図書館、ヴィクトリア&アルバート博物館などに所蔵されている。また、アンブロジアーナ図書館には12巻の「アトランティコ手稿(英語版)」が、大英博物館には「アランデル手稿(英語版)」がそれぞれ所蔵されている[93]。ビル・ゲイツが所蔵する「レスター手稿」は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。, レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている[94]。しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない[19]。, レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドはラテン語や数学の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。レオナルドは1495年に修道士・数学者のルカ・パチョーリの数学書『スムマ』を購入しており、1496年にはパチョーリとミラノで出会い、彼のもとで数学を学ぶ。1509年に出版されることになるパチョーリの著書『神聖比率(英語版)』の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている[19][95]。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた解剖学を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている[96]。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで絵画論(イタリア語版)、ウルビーノ手稿(英語版)とも呼ばれる)として出版された。1724年にはドイツでも出版されている[97]。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった[19]。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者フリッチョフ・カプラのようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世のガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンといった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している[98]。, レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、筋肉、腱など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。その中にはセックスを行っている男女の断面図も含まれる[99]。, 著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院(英語版)での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ(英語版)とともに共同研究を行った。レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた[100]。結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった[19][100]。メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、チェッリーニ、デューラーらが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている[100]。, レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいうバイオメカニクスの初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている[101]。レオナルドは心臓や循環器、性器、臓器などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている[90]。芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている[19][90]。, レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。また、ウマに関する手稿も多く残している。, 存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。また、ニッコロ・マキャヴェッリも参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった[102][103]。レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ(英語版)、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている[13][19]。, 1502年にレオナルドは、オスマン帝国スルタンのバヤズィト2世が構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。この橋はボスポラス海峡入り江の金角湾に架けられる予定だった。しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施されたレオナルド・ブリッジ・プロジェクト(英語版)で実際に建設された[104][105]。, レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿(英語版)』などで鳥の飛翔を研究し、ハンググライダーやヘリコプターのような飛行器具の概念図を制作している[19]。イギリスのテレビ局チャンネル4は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械(英語版)』で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した[106]。設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。1506年にレオナルドと彼の友人でもあり、共同研究者でもあるトマス・マシニ(英語版)はフィレンツェ共和国のチェチェリ山で飛行実験を行うも失敗した[107][108][109][注釈 27]。, レオナルドの名声は生前から一貫している、とよく誤解されている。当時はフランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。しかし留意しなければならないのは、当時のフランスは美術的には後進国であり、本当に才能のある画家たち(ミケランジェロやラファエロら)はローマへ行っていた時期である。つまりレオナルド は美術の中心地で仕事をすることができずに、辺境へ行かざるをえないほどの二番手の画家であったと、当時は評価されていたのが実態である。, 現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている[19]。, ヴァザーリは『画家・彫刻家・建築家列伝』の1568年に出版された第2版の[110]、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。, 多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。レオナルド・ダ・ヴィンチがこのような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。 The minutes of the meeting were published in Giovanni Gaye. 大学で美術史を勉強していて、グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画のwikipediaを見ていたところ、'第1面の中央パネルは十字架上のキリストの左右に聖母マリア、マグダラのマリア、使徒ヨハネ、洗礼者ヨハネなどを配したもの。'とあ 洗礼者ヨハネはユダの荒れ野で教えていたという。 ユダの荒れ野というのは死海から高地へあがった乾燥した地域で人はあまり住んでいなかった。 荒れ野という言葉がしばしば砂漠と同義にとられることがあるが、砂漠ほど乾燥していたわけではなく、放牧が行われていた。 Publisher; J.M. ƒŒƒIƒiƒ‹ƒhEƒ_Eƒ”ƒBƒ“ƒ` (Leonardo da Vinci). Isabella D'Este, Marchioness of Mantua, 1474–1539. (New York, Doubleday, 2007), [Leonardo da Vinci, Copulation, c. 1493, pen and ink. レオナルド・ダ・ヴィンチ((伊: Leonardo da Vinci、イタリア語発音: [leoˈnardo da ˈvintʃi]  発音[ヘルプ/ファイル])1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) 。「ダ・ヴィンチ」とはヴィンチ村出身であることを意味しており、個人名の略称としては「レオナルド」を用いるのが適切である。音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿をのこした。, レオナルドの名前は神話に包まれている。ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている[1]。史上最高の呼び声高い画家の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である[2]。アメリカ人美術史家ヘレン・ガードナー(英語版)は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした[1]。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている[3]。, しかし同時にレオナルドは史上最も過大評価されている偉人と捉える人もいる。文化史的に「万能人」はアルベルティなど他にも多才な人が当時大勢いたのは事実であって、彼ひとりが「万能人」であり天才であるわけではない。またレオナルドは学術言語のラテン語を解せず独学であった故に、専門的知識から常に遠いところにいたため、彼が何か画期的な発明や発見を成し遂げたわけではなく、当時の科学的知識を追った程度の水準である。本人の手稿に描かれたデッサンの卓越さと奇抜さが評価されているのであって、当時の学問水準から傑出したものではない。, 画家としても後輩筋のミケランジェロやラファエロと違って、美術の中心地のローマで活躍することはできなかった。17世紀から18世紀までは上記の2人の存在感と比較すればいないと同然であり、現在の高い評価は19世紀に入って手稿が研究されてからである。20世紀になるとレオナルドはその個性から神話化され、ビジネスの対象となってしまい、過大評価がなされていると考える美術史家や科学史家も多い。[4], 1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。, 1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったヴェロッキオが、運営する工房に入門した。, 画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。, レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い[2]。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と[5]、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に知名度の点で比肩しうる絵画作品はほとんどないだろう。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的象徴(英語版)と見なされており[6]、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる[注釈 1]。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは近代以降の芸術家へ多大な影響を与えた。, レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている[2]。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論[7]、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが[注釈 2]、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした[注釈 3]。また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった[8]。, レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」[注釈 4]に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた[10]。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は(おそらく農夫の娘)カテリーナである[9] E. リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した[114]。, 19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。イポリット・テーヌは1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている[115]。美術史家バーナード・ベレンソンは1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している[116]。, レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている[117]。リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している[13]。, レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。, 作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた, レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。, レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in, レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している, ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。, 1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている, ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。, 『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている, レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。, 上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。, ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある, 「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。. [注釈 21]。, レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている[13]。, 『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている[注釈 22]。ヒエロニムスは苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した[74]。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。, 『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館)で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年にロレンツォ・デ・メディチから、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへの使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった[11][72]。, この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『岩窟の聖母』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス(en:Giovanni Ambrogio de Predis)と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた[75]。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている[76]。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった[19][31]。, レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある壁画『最後の晩餐』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている[77]」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『ヨハネによる福音書』の一場面をこの壁画に描き出したのである[19]。, レオナルドの同時代人のイタリア人著述家マッテオ・バンデッロ(en:Matteo Bandello、1480年頃 - 1562年)は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事も採らずに絵画制作に没頭し、その後3、4日はまったく絵筆を取らなかったとしている[78]。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している[79]。, 完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたが[80]、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった[81]。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置けるフレスコ技法ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上からテンペラを用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである[82]。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。, レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、ルーヴル美術館が所蔵する『モナ・リザ』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「スフマート」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。ヴァザーリはこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている[83] 洗礼者ヨハネは、主イエスが宣教を開始される前に、悔い改めて神のもとに立ち返ることを教えて、人々に洗礼を授けた人でした。 マルコによる福音書は、この洗礼者ヨハネの活動から書き始められていま … Capra, Fritjof. Leonardo, Codex C. 15v, Institut of France. ダヴィンチの『洗礼者ヨハネ』は、人差し指を天にむけていますが、本来は、聖書の中で洗礼者ヨハネがイエスに向かって「見よ、神の小羊」とイエスを指し示した様子を表現したポーズですから、普通は以下のように洗礼者ヨハネがイエスに向かって指さすポーズになります。 『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、ルーヴル美術館(パリ)。 ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている [64] 。 「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られる ジャン・ジャコモ・カプロッティ がレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 洗礼者ヨハネは、主イエスが宣教を開始される前に、悔い改めて神のもとに立ち返ることを教えて、人々に洗礼を授けた人でした。 マルコによる福音書は、この洗礼者ヨハネの活動から書き始められていま …

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