式波 戦艦

6。, 「宇宙艦隊図録 File06 Sheet01B 地球防衛軍 宇宙戦艦ヤマト 艦内設備(1)」『宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第52号p. 1905年(昭和38年)1月14日、筑波は「子号装甲巡洋艦」として[26]、呉海軍工廠で起工された[29]。 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた[28][29]。 裕仁親王(皇太子。のちの昭和天皇)、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王は装甲巡洋艦「常磐」に乗艦して、防護巡洋艦「矢矧」に先導される「筑波」を出迎えた[74]。供奉艦は常磐以下3隻(矢矧、満州、常磐)[74][72]。日本海軍艦艇(扶桑、摂津、河内、安芸、薩摩、筑摩、笠置、利根、比叡、金剛、榛名、霧島、対馬、新高、音羽、最上、橋立、大和、武蔵、千早、嵯峨、宇治、水雷戦隊、潜水艇隊)等以外にも、米国支那艦隊司令長官ウィンターハルター(英語版)海軍大将座乗の巡洋艦サラトガ(ACR-2、4代目サラトガ)が参列した[71]。 12月27日、明治天皇は「筑波」に乗艦、同時に「千歳」を親閲した[64][65]。, 1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[36]。4隻(筑波、生駒、鞍馬、伊吹)は巡洋戦艦に類別された[66][5]。, 1914年(大正3年)3月20日、裕仁親王(昭和天皇)・雍仁親王(秩父宮)・宣仁親王(高松宮)は神戸港で戦艦「薩摩」(加藤友三郎第一艦隊司令長官)に乗艦する[67]。先導艦は戦艦「摂津」、供奉艦は戦艦「石見」であった[67]。海軍兵学校のある江田島にむけて航行中の3月22日午前中、軍艦3隻(筑波、金剛、周防)は御召艦の仮想敵となる[68]。当時の筑波艦長は加藤寛治大佐だった[68]。, 1915年(大正4年)12月4日、横浜沖合で特別観艦式がおこなわれる[69][70]。大正天皇は横浜港において「筑波」に乗艦[71]、本艦は天皇の御召艦となった[72][73]。 船体後部は浮揚が可能であり[95]、 長門型では主砲塔の減少に伴い、1人あたりの居住面積が拡大した[5]。居住区を広く取れたため、乗員から歓迎されたという[5]。大和型戦艦を除けば、帝国海軍艦艇の中で最良の居住性を有した[5]。, 当初は前檣を三脚マストにする予定だった。だがユトランド沖海戦の戦訓を取り入れ、耐震性に優れる強固な主檣に六本の副檣を合わせた七脚檣を採用した[28]。海外からはパゴダ・マストとよばれ、日本戦艦の特徴となった[28]。前部艦橋は頂上部に円筒状ケース内に射撃方位盤を収めた射撃所とされ、水線からの高さは約41mとされている。数値上は大和型戦艦の艦橋高39mより高いはずだが、「大和」左舷に「長門」が横付けするのを「武蔵」艦橋から観察していた信号兵は「大和の檣楼は長門の艦橋より頭一つ(射撃指揮所、15.5m測距儀)高かった」と回想している[31]。頂上射撃所の下部は射撃指揮所、その下は檣楼指揮所とされ、半段下がって両側が副砲指揮所となっている。その次は列強の中でも大型の10m主砲用測距儀が置かれた高所測距儀所とされ、測距儀はレール上を旋回するという珍しい方式となっている。, 扶桑型の建造でも問題となった主砲発射による爆風の負荷に耐えるため、平賀譲の設計によって、艦橋部支柱をそれまでの3本から、7本に追加したと言われる。その爆風対策に問題はなかったが、新造時には艦橋が外に露出している事から、煙突からの排煙には悩まされた。牧野茂によれば、排煙処理が問題になった時点で平賀譲計画主任は藤本喜久雄部員に対策を検討させた[32]。藤本が前煙突を湾曲させることを提案すると、平賀は「みっともないことが出来るか」と拒否し、覆いをつけるという対策をとった[33]。ところが効果はなく、平賀は煙突を曲げるという藤本の提案を無断で取り入れ、両者の対立の一因となった[33]。この煙突は長門型戦艦のシンボルとなったという[33]。幾度かの改装と共に、艦橋構造は複雑な外観を呈した。艦橋にエレーベーターがあり、山本五十六長官が利用したという証言もある[34]。末期の「長門」には、偽装の為、頂上部の射撃所と電探が取り払われた。, 長門型は、米海軍が今後戦艦主砲に16インチ砲(40.6センチ砲)を採用することを予測して、16インチ級艦砲を搭載することになった[35]。 まとめの部分に、「”惣流” “式波”の名前の由来は日本海軍の戦艦からとったもの」とありますが、どちらも戦艦ではありません。なお、敷波は軍艦でもないので、「艦船」等の表記にするべきだと思います。 本文に関係ない突っ込みですみません。 概要. このあと大正天皇は「筑波」より賜餐艦の扶桑型戦艦「扶桑」に乗艦した[75][76]。午後4時10分、天皇は横浜西波止場に上陸し、東京にむかった[77]。, 1916年(大正5年)5月21日、皇太子(裕仁親王)・雍仁親王・宣仁親王が横須賀軍港に行啓し、修理中の巡洋戦艦「金剛」や建造中の扶桑型戦艦「山城」を見学する(筑波も横須賀在泊)[78][79]。この時、軍港の見学移動に筑波艦載の水雷艇が使用された[78]。 10月25日、東京湾で行われた観艦式で、「筑波」は再び大正天皇の御召艦となる[80][81]。, 1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には本艦以下日本海軍の艦艇多数(筑波、河内、生駒、榛名、金剛、津軽、山城等)が所在だった[82][83][84]。 潜水艇母艦兼水上機母艦に改造する案も出されたが[96]、 9月9日に残務処理終了[102]。 また旅順港閉塞作戦における事故(吉野と春日の衝突で吉野沈没)の戦訓から衝角を廃止した[33][35]。 第十二卷』, 明治40年12月28日官報第7352号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ14, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176089, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966146, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966621, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062919/176, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460383, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10782797, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10783380, 山本政雄「軍艦爆沈事故と海軍当局の対応 : 査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察」防衛省/戦史研究年報. 1912年(大正元年)に類別としての巡洋戦艦が新設されるまでは[36]、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)であった[3][5]。戦艦「薩摩」と本艦(筑波)の2隻は、日本が国内で初めて建造した装甲艦である[37][33]。 廃棄処分が決定した[98]。 だが建造中にジュットランド沖海戦が起きたため、戦訓を取り入れるために起工を約1年延期した[21]。だが予算や日程の都合上、設計を完全に変更することができず[4]、戦訓を設計段階から反映したのは長門型の拡大改良型たる加賀型戦艦[22]と天城型巡洋戦艦[23]であった。, 長門型2番艦の「陸奥」は、ワシントン海軍軍縮条約で完成しているかどうか問題になった[5]。結果として「陸奥」の建造は認められたが、代償としてアメリカ海軍はコロラド級戦艦2隻の追加建造(既に1隻が完成していた。)、イギリス海軍は戦艦2隻(後日、ネルソンとロドニーとして竣工)の新造を認められた[24]。一連の経過を経て竣工した長門型戦艦2隻、コロラド級戦艦(3隻/1921年)、ネルソン級戦艦(2隻/1927年)を世界のビッグセブン[25](もしくは世界七大戦艦)[26][27]と呼ぶ事もある。, 竣工時の長門型は、常備排水量33,800トン、16インチ級(41.0cm)砲8門、最大速力26.5ノットの高速戦艦であった[28]。昭和9年から行われた大改装で近代化され、ネルソン級や各国の35,000トン級戦艦(米国ノースカロライナ級戦艦、英国キング・ジョージ5世級戦艦、仏国リシュリュー級戦艦、伊国ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦、独国ビスマルク級戦艦などの新型戦艦を指す)に対抗できる性能を、額面上は維持し続けた。, なお、長門型は「完全国産化戦艦」と称されることがあるが[5]、各部に輸入品が使用されている。長門型のタービン主機は米国ウェスチングハウス社の基本設計によるものであり、「長門」の歯車減速装置は同社からの輸入品であった。「陸奥」は同社から歯切盤を輸入して国内で歯車を削りだしたものである。砲塔測距儀も、第一次世界大戦でイギリス式測距儀の輸入が困難になったため、アメリカのバウシュローム社より輸入した波式6メートル測距儀を装備している[29]。 皇太子・東郷平八郎大将・山階宮菊麿王達は装甲巡洋艦「磐手」(供奉艦笠置)に乗艦し[51]、12月11日に呉へ到着した[52][53]。 23。, 「大銀河科学技術講座 Sheet06 3連装衝撃砲(ショックカノン)」『宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第3号p. まず第一次世界大戦前の1914年(大正3年)6月2日、日本海軍は16インチ級砲の試作を公式に命じた[36]。この砲は、すでに前年から開発がはじまっていたという[7]。 9月1日、「筑波」は軍艦籍より除かれ[11]、艦艇類別等級表からも削除された[100][101]。 13。, 『宇宙戦艦ヤマト復活篇 ディレクターズカット版』PV。『宇宙戦艦ヤマト復活篇 ディレクターズカット版』BD&DVD〈, 『「宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2199製作委員会(発行)、松竹(販売)、2012年10月、pp. 当初の計画では4軸合計60,000馬力で速力25ノットを予定したが、ジュットランド海戦の戦訓から速力増大の要求があった[4]。そこで汽缶を増載するとともに、新型の減速式タービン(日本製、艦本式)を搭載した[4]。これは日本戦艦として初の試みであった[4]。これより計画案より20,000馬力強化され、1.5ノット増加の26.5ノットを達成した[4]。 1917年(大正6年)1月14日、「筑波」は停泊中の横須賀港で、火薬庫爆発事故により沈没した[29][38]。, ジェーン海軍年鑑は、類別変更以前の装甲巡洋艦の分類を用いたが、ワシントン海軍軍縮条約において同型艦の「生駒」は、規制対象の戦艦として扱われた。, 一等巡洋艦「筑波」は、日露戦争初期に喪失した戦艦「初瀬」と「八島」の代艦として[29]、日露戦争臨時軍事費で建造された(安芸、薩摩、筑波、生駒、鞍馬他)[39][40]。 技術的には、巡洋戦艦の先駆ともいうべき装甲巡洋艦である[34]。 1907年(明治40年)1月14日、「筑波」は竣工した[29]。, 同年(1907年)2月28日、第二艦隊司令長官伊集院五郎中将指揮下の2隻(筑波、千歳)は横浜を出発する[29][61]。アメリカ殖民300年祭記念観艦式(ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪した[29][62]。 12月26日、「筑波」は皇太子臨席および東郷平八郎大将立ち合いの下で午前9時進水した[10][57][58]。 戦時中は秘匿されていたため、長門型2隻を上回る大和型戦艦「大和」「武蔵」の存在が広く知られるようになったのは、戦後の事である。ただし戦時中でも新造戦艦の完成そのものは公表されており、竣工から20年を経ている長門型戦艦が日本最強の戦艦だと認識されていたわけではない。またアメリカの新造戦艦の情報も日本国内に入っていた事から長門型が旧式である事は日本国民一般に認識されていた[14]。, 列強各国が14インチ(35.6㎝)砲搭載戦艦の建造に乗り出したことに対し[15]、イギリス海軍は技術的・性能的優位に立つために15インチ(38.1㎝)砲搭載戦艦の建造を開始、1911年(大正2年)6月にクイーン・エリザベス級戦艦4隻の建造が承認された[16]。同級は38.1㎝連装砲塔4基と充分な防御力に加え、最大速力25ノットを発揮する高速戦艦であった[3]。 だが進水台の異常により[54]、筑波の進水式は延期される[55][56]。 (9), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=筑波_(巡洋戦艦)&oldid=74255698, 山本政雄、『軍艦爆沈事故と海軍当局の対応—査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察—』、. 兵器、機械類や重要物件などは8月中にほぼ引き揚げが終了し[99]、 費用や日数がかかり[97]、 後に戦艦大和の46cm主砲を製造した秦千代吉もこの時派遣された者の一人である 。 進水式. 改装前の航続力は16ノットで5,500浬だったが、改装で10,600浬とほぼ倍加した。, 竣工時の長門と陸奥の識別点は様々な点があり、主なものでは主砲塔用測距儀が長門は波式6m測距儀で陸奥は武式8m測距儀で大型化している(改装時に両艦とも10m測距儀と交換)。また、艦首からの眺めでは菊の御紋章の位置が長門よりも陸奥の方が上がっている点も挙げられる。, 「これからアメリカが造ろうとしている主力艦は陸奥のような三万二千七百トン位しかないちっぽけな軍艦ではない。モンタナ級の五隻などは一隻で五万八千トンもあるという大戦艦だ」高山書院『日本は勝つ』福永恭助著 昭和18年5月発行より引用, Ref.C10100742300「2年10月15日 英国戦艦「ワースパイト」中央切断図の件及其の図一部訂正の件」、 Ref.C10100743500「2年12月24日 英国戦艦「ワースパイト」全体配置図等提出の件」など。, 「軍艦長門、扶桑要目」p.4、「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」p.2, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=長門型戦艦&oldid=77551985, 朝日新聞社 編『海軍少年航空兵』(東京朝日新聞発行所、1937年)「戦艦長門へ乗艦」, 宇都宮俊雄 『海軍記念写真帝国軍艦帳 : 演習並海軍生活状況』(宇都宮総本店、1924年), 佐藤光貞『海軍の科学』(東亜公論社、1941年)「戦艦『長門』と『陸奥』はいつ出来たか」, Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」, Ref.C10100742300「2年10月15日 英国戦艦「ワースパイト」中央切断図の件及其の図一部訂正の件」, Ref.C10100743700「2年10月17日 英新戦艦「ワースパイト」に関する件」, Ref.C10100741900「2年10月21日 英新戦艦「ワースパイト」並に新軽装甲巡洋艦「オーロラ」に関する件」, Ref.C10100742500「2年11月20日 英新戦艦「ウォースパイト」に関する件」, Ref.C10100743500「2年12月24日 英国戦艦「ワースパイト」全体配置図等提出の件」, Ref.C10100743400「2年12月30日 英艦「ウォースパイト」に関する件」, Ref.C10100802100「6年4月10日 英艦「クイン・エリザベス」及「オースパイト」乗艦中見聞報告の件」. 233より。, 「宇宙艦隊図録 File04 Sheet01B 地球防衛軍 宇宙戦艦ヤマト 艦内設備(1)」『宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第46号p. 長門型戦艦(ながとがたせんかん)は、大日本帝国海軍の戦艦の艦型のひとつで、八八艦隊計画により最初に作られた戦艦[2]。, 長門型戦艦は、イギリスから提供されたクイーン・エリザベス級戦艦の設計図を参考に、日本海軍が同艦型に大幅な改正をくわえ16インチ級砲を搭載した、国産の新型戦艦である[3]。ユトランド沖海戦の戦訓を一部取り入れ[4]、砲熕や機関部は日本独自の設計であった[5]。基本計画は、艦政本部の山本開蔵造船大監が担当した[6]。後日、平賀譲造船中監も設計に加わり、改正計画に携わった[7]。, 本型は八八艦隊計画にもとづき、「長門」と「陸奥」の2隻が建造された[8]。1番艦の「長門」は呉海軍工廠で1917年(大正6年)8月28日に起工、1919年(大正8年)11月9日に進水、1920年(大正9年)11月25日に完成した[9]。2番艦の「陸奥」は横須賀海軍工廠で1918年(大正7年)6月1日に起工、1920年(大正9年)5月11日に進水、ワシントン会議に間に合わせるため1921年(大正10年)10月24日に竣工した[5]。, 長門型戦艦は建造時(1920年)、世界最大・最強・最高速の戦艦であり[10]、日本国民にとって日本海軍の象徴であり[11]、当時の子供達も「大好きな戦艦は何か」と聞かれればこの長門型(特に長門)と即答し、写生するときの題材にも必ず挙がったと言われている[12]。長門型戦艦は就役後から大東亜戦争まで、幾度か改装を行いつつ、大きな問題なく運用された[5]。本型の成功は、日本の軍艦建造技術がほぼ世界水準に追いついたことを意味していた[13]。 本型が搭載した主砲の制式名称は、四十五口径三年式四一糎砲である[37]。試作のI型は1915年(大正4年)12月に被帽徹甲弾の製造がはじまり、1916年(大正7年)7月に試射をおこなった[38]。世界で最初に採用された、この砲は、国内で実用化された初めての戦艦用主砲であった[7]。同時に同砲の三年式尾栓は、最初のメートル法採用の設計であった[7]。日本海軍がメートル法を正式に採用したのは1921年(大正10年)からだが、造兵部門では1914年(大正3年)からメートル法を採用していたという[39]。, この主砲は大正6年(1917)に「四十五口径三年式四十一糎砲」として制式化されたが、ワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦の主砲口径が最大16インチとされ、この41cm口径はそれを超えることになった[7]。そこで条約調印後の大正11年(1922)3月29日に呼称については「四十五口径三年式四十糎砲」と変更された。当初は主砲に「四十一糎」と彫り込んだ数字があったが、「四十糎」と修正している[40]。, 本砲の砲身直径67.4センチは英国の15インチMk.Iよりも小さく、技術的に優れた軽量砲であった。性能的にも、米国コロラド級戦艦や、英国ネルソン級戦艦の16インチ砲より全般的に優れており、米新型戦艦のSHS(初速低下と引き替えに、水平装甲への打撃力を大幅に増した大重量砲弾)を搭載した16インチ砲を除けば、最強の16インチ級艦載砲と言えた。また竣工時の性能においても、1万5000mで当時のアメリカ海軍主力戦艦の装甲を貫通することが可能であった[41]。, 建造当初の性能は、初速790m/s[41]、最大射程30,300m、主砲塔の最大仰角30度/俯角5度[42]、砲弾重量1,000kg(五式徹甲弾)、砲身の命数は250発、距離15キロで甲鈑貫通力16インチ/距離20キロでは10.7インチ(271ミリ)[41]であった。 竣工時の「長門」は26.44ノット[48]、「陸奥」は巡洋戦艦並みの速力26.7ノットを記録したが、速力は機密とされ、23ノットと公表されていた[49]。1920年代の米国資料には「日本の公称は23ノット、でも機関の能力から考えて24.5~25ノットは出るはず」とあり、1936年に米国で出た大改装前の長門を示す資料でも、24.5ノットと認識されていた。, 関東大震災の際、演習のため渤海湾に集結していた聯合艦隊(聯合艦隊司令長官は竹下勇大将、「長門」に坐乗)は救援のため演習を中断し、救援物資や食料を搭載して東京湾に急行した[50][51]。連合艦隊参謀として長門に乗艦していた福留繁大尉は「長門は最大速力26ノット(公称22ノット)で東京湾に急行したところ、イギリス東洋艦隊旗艦の巡洋艦プリマスに追跡され、本当の速力を見破られた」と回想している[52]。この巡洋艦はプリマスではなく、実際には、英海軍のダナイー級軽巡洋艦HMS Despatchであるという[53]。「長門」は後方にHMS Despatchを確認し、最高速度に係わる機密が漏洩するのを避けるために速度を落とした[53]。長門型の最大速力が26.5ノットであることは重大な機密事項であるため、公海上でみだりにその速度を発揮することは禁じられていたため[53]。HMS Despatchは、「長門」坐乗の竹下大将に礼砲を行ってから、「長門」を追い抜いて横浜港に向かった[53]。1923年(大正12年)9月18日に兵庫県知事から海軍大臣宛に「英艦『デイスパツチ』入港ス」という報告があった旨の記録がある[54]。, 就役後の長門型戦艦は運用面で艦隊側から、良好な評価を得た[5]。加速・減速性能は就役中の日本戦艦で最良であり、旋回半径は扶桑型や伊勢型よりも大きかったものの、速度低下は少なかった[5]。舵の利きもよく、艦の保針も容易であることから、日本戦艦で最良の運動性を持つと評価された[5]。, 当初は改装時に機関換装を行い、速力を29.3ノットに向上させると共に、ボイラー数の減少によって捻出したスペースに格納庫を設置し、9機の航空機を搭載する予定だった。搭載機用のエレベーターも昭和7年に日立製作所より、横須賀工廠に納入されたが機関換装は中止され、改装は防御構造の強化にふりむけられより重防御となった。, 改装後の長門型は重油専燃となり、10/10全力公試で排水量43,473トン、機関出力88,445馬力での25.8ノットを発揮したことがある。こうしたことからも、改装による速力低下は実質的には最低限に抑えられていた。レイテ沖海戦で同部隊の大和が26ノット以上の速度で2時間半以上走り回っても、同行する長門が落伍しなかったことが、このことを証明している。 「筑波」は国産最初の大艦として設計され、呉工廠で建造された[35][41]。当時の日本が建造した最大艦は、松島型防護巡洋艦橋立(基準排水量約4,200トン)で、筑波(基準排水量約13,500トン)は技術的にも大きな飛躍であった[42][43]。 この名を持つ日本海軍の艦船としては「筑波艦」(コルベット)に続いて2隻目[29][30]。, 戦艦に準ずる砲力を持つ巡洋艦として、また旅順攻囲戦にともなう戦艦2隻(初瀬、八島)沈没を補うため[31]、姉妹艦生駒と共に急遽計画・建造された[32][33]。 長門型は近代化改装において、主砲の強化をおこなった。砲弾の改良もあって、性能は大幅に強化された。改装後の性能は初速790m/s、最大射程38,430m(最大仰角43度/俯角2度)、砲弾重量1,020kg(九一式徹甲弾)、砲身の命数は250発、距離20キロでの垂直装甲貫徹力は454ミリであった。, また、建造時の長門には、砲の駐退機構と揚弾機への動力供給能力不足により「斉発(多連装砲塔が、搭載砲を同時に発砲すること。全砲を一斉に発射する場合も斉発と呼ぶ)」を多用すると射撃速度が低下するという問題があった。折しもワシントン海軍軍縮条約で加賀型戦艦の建造が中止されたため砲身が余り、長門型に移植された[29]。さらに、弾庫及び装薬庫の移送機能強化、装薬缶の形状変更などの改善がされている。, この改善により、それまで常用されてきた搭載砲の半数ずつを交互に発砲する「斉射(交互一斉打ち方)」だけでなく、全搭載砲の斉発を支障なく行えるようになった。しかし、斉発可能となったことにより今度は揚弾能力の不足が問題となった。昭和14年の『術科年報』によると、斉射による交互射撃では16秒ごとの砲撃が可能だが、斉発では30秒前後が精一杯とされ、実際には最初の10発ですら平均50秒近く要する艦や、長門の3番砲のように41発目以降の揚弾で100秒を越える艦があるなど、要求された発射速度を達成できなかった。, 実際の発射速度は、昭和14年の艦隊演習時で、14インチ砲の記録では、最良で40秒、最悪で1分20秒であった。長門型の41センチ砲もほぼ同等と考えられている。, また命中率改善のために、各砲の射撃タイミングをわずかにずらす九八式発砲遅延装置が搭載された。これにより、全砲による斉発を行った場合、1発の命中弾(水中弾を含む)が75%で期待できる距離が34,500mとなったとされた。しかし実際には25,000mを越える距離での着弾観測が困難であること(32,000mまでの測距は一応信頼が置けるが、近弾以外の弾着水柱を確認できないので、観測機を併用しなければ着弾修正が難しい)から、遠距離射撃に対する問題は解消されていなかった。, 演習時の観測機使用による主砲の散布界は、昭和15年度の昼間乙種戦闘射撃実施記録では、自艦速力21ノットのさいに長門が32,500mで遠近261m/左右102m、命中率は15.7%(水中弾による命中を考慮した第二有効帯を含めるなら、17.5%)、陸奥が32,300mで遠近200m/左右52m、命中率14.9%と優れた数値も残っている(ただし、陸奥は同じ演習で28,300mで12発撃って命中0、長門も命中1など、あくまで目安でしかないことに注意)。, さらに昭和19年12月に、一度充填した砲弾を他の弾種に変更する機構を追加設置したとされている。, 主砲塔はクイーン・エリザベス級戦艦と同様の配置となり、連装4基を前後に背負式で配置した。砲塔は従来のイギリス式に日本式設計を加味した新型となり、天蓋装甲はジュットランド海戦の戦訓を受けて6インチに強化された[43]。だが、基本的には従来の構造(イギリス、ヴィッカース社)を踏襲している[43]。16インチ級砲を搭載したため、砲塔旋回部重量は伊勢型戦艦から350トン増加して900トンとなった[43]。砲塔動力は、伊勢型とおなじ650馬力水圧ポンプ4台であった[43]。, 後日、長門型の主砲塔8基は、加賀型戦艦に搭載予定で10基生産されていた改良型主砲塔(うち土佐むけの2基は、すでに陸上砲台に転用)に換装された[44]。撤去された長門型の砲塔のうち、陸奥3番主砲塔は江田島に陸揚げされ、現存している[45]。, 前型である伊勢型に引き続き「五十口径三年式十四糎砲」を搭載した[4]。搭載位置は両舷の最上甲板と上甲板の二段ケースメイト配置に装備され、単装砲20基を搭載した。伊勢型よりも船体容積が増したため、副砲により居住空間が狭くなる弊害は少しは改善された[4]。その他に「四十口径三年式八糎高角砲(実口径は3インチ)」を第一煙突両脇のシェルター甲板に2基ずつの計4門搭載した。, 改装により、三年式8センチ高角砲を降ろし、代わりに八九式12.7センチ連装高角砲4基(計8門)を搭載した、重量問題などもあり副砲2門を降ろしている。, さらに昭和18年6月に、二号一型電探を搭載した。マリアナ沖海戦後に二号二型電探、一号三型電探各2基搭載、対空機銃増設(計98門)を行った。なおこの時点で副砲2門を代償重量として撤去されたとされていたが、昭和19年10月に撮られたブルネイ停泊時の長門の写真では撤去はされていない。レイテ沖海戦後には、副砲4門撤去の代償として、八九式12.7センチ連装高角砲2基(計12門)、25ミリ機銃30基(計128門)を増設している。こうした装備のほとんどは、昭和20年6月に本土決戦に備えた特殊警備艦となった際に降ろされている。, さらに、53.3センチ魚雷発射管を8門(4基を水上設置の半旋回型とし、残りは水中装備)搭載していたが、改装時に撤去された。, 竣工時には弾着観測用気球を装備し、甲板後部に係留・発艦させていた。水上機による弾着観測が実用化されると弾着観測用気球は水上機に置き換えられたが、カタパルトが実用化されていなかったためにデリックで水上機を水面に上げ下ろしし、水上機は水面より発進していた。改装前後の時期に実用化された呉式2号5型カタパルトが装備され、同時に艦載機運搬軌条とターンテーブルの設置、従来のデリックを廃止し収納式の強化デリックの新設などが行われた。艦載機には九五式水上偵察機、のちに零式水上観測機といったいわゆる「二座水偵」が3機搭載された。長門型に装備されたカタパルトは、旋回時に後部艦橋に接触することを防ぐため、前から1/4ほどの位置で上に折り曲がる機構を持っていた。, 建造中にユトランド沖海戦が起こったことから、長門型は同海戦の戦訓である「水平防御の強化、高速の実現」を反映した設計変更がなされた[4]。初のポスト・ジュットランド型戦艦として完成した。従来の戦艦にあった副水線装甲帯を廃止し、代償重量を水平防御力強化に回した[4]。水平防御は元設計の1.75インチ厚を1インチ強化した[4]。, 主砲塔前楯と側面は12インチ(305ミリ)、上面は6インチ(152ミリ)であり、コロラド級の18/9~10/5インチに比べ、前面は薄いものの、遠距離での砲戦には対応していた。ただしネルソン級は16/11/7.25インチなので改装前の長門型を上回る重防御だった。, 垂直防御は水線部305ミリ+傾斜装甲76ミリであり、343ミリのコロラド級とほぼ同等、330~356ミリ18度傾斜(垂直換算だと400ミリ以上)のネルソン級よりは劣っていた。, 水中防御は舷側装甲の下端から下方内側に傾斜した防御隔壁を備え、鋼板を3枚重ねた構造となっており、さらに水中弾防御として76.2mmHT鋼の隔壁を備えていた。水中防御区画の幅は6.2mであり、防御構造を加味する必要はあるが、コロラド級の5.334m、ネルソン級の5.625mを上回っていた。前述のように水平防御力強化の代償として舷側の非防御区画が拡大しており、船体には多数の防水区画が設けられた[28]。本型は、日本海軍が独自の集中防御配置を歩むきっかけとなった[28]。, なお、改装により、各部位の防御力は強化された。砲塔防御は前楯が460ミリ、側面は280ミリ、天蓋は127~191ミリとなっており、バーベットも457ミリとなっていた。, 垂直防御は、弾火薬庫部分の傾斜装甲に2~8インチ(50.8~203ミリ)を加え、垂直305ミリ+傾斜装甲127~280ミリとなった。ただし、弾火薬庫部分以外は新造時の305+傾斜装甲76ミリのままであった。, 水平防御は弾火薬庫部分で69.85ミリHT+127ミリNVNC+50.8ミリHT(合計247.65ミリ。1枚板換算だと180ミリ程度)。機関部の水平防御は50.8ミリHT+69.85ミリHT+25.4ミリDS+50.8ミリHT(合計196.85ミリ。1枚板換算だと140ミリ程度)と強化されていた。, 水中防御はバルジを加え約9mの幅となっていた。これはテネシー級(改装後)の7mを上回っていた。, 改装前の長門型は石炭と重油の双方を燃料としていた[47]。航続力は16ノットで5,500浬。 筑波(つくば)は、大日本帝国海軍の巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦) 。 筑波型巡洋戦艦の1番艦である。 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた 。 この名を持つ日本海軍の艦船としては「筑波艦」(コルベット)に続いて2隻目 同時期、アメリカ海軍が16インチ(40.6㎝)砲戦艦を準備中との情報を得た日本海軍は、14インチ砲搭載艦を8隻(戦艦は扶桑型と伊勢型の計4隻、巡洋戦艦は金剛型4隻)で打ち切り、16インチ級(41.0㎝)砲装備の戦艦8隻・巡洋戦艦8隻の建造計画をまとめる[17]。この八八艦隊の1番艦が「長門」、2番艦が「陸奥」である[18]。 18。, 『宇宙戦艦ヤマト2199 第五章 望郷の銀河間空間』劇場パンフレット、松竹、2013年4月、p. 日曜日で乗組員の半数が上陸しており、爆発時に艦内に残っていた乗組員は約340名と推定され、そのうち125名が死亡、27名が行方不明となった[85][84][88]。 午後3時15分ごろ「筑波」の艦橋と第一煙突間で大爆発が発生し、5分ほどで沈没した(浅海底のため艦橋等一部露出)[85][86][87]。 同時に、「筑波」は一等巡洋艦に類別された[3][60]。 西暦2199年建造の、宇宙戦艦ヤマトの主砲に採用されたことを皮切りに、地球防衛軍の戦闘艦艇の標準艦載砲となった火砲である。 日本語表記は「衝撃砲」、あるいは「衝撃波砲」。敵艦を一撃で粉砕し得るほどの破壊力をもつ。 同日附で、子号装甲巡洋艦は正式に「筑波」と命名される[26][59]。命名書は、海軍大臣代理の呉鎮守府司令長官有馬新一中将がよみあげた[58]。 24。, 劇中ナレーションおよび公式設定集『ファイナルデラックス版 ヤマトよ永遠に』p. このように長門型はイギリス式戦艦の影響がのこり、英国式設計を脱却するには加賀型戦艦を待たねばならなかった[30]。それでも、日本独自の設計が多い本型は、大きな問題を起こさなかった[5]。長門型は、同時期の日本の軍艦建造技術が一応、世界レベルに到達していたことを証明した[5]。, 艦首は水線付近で60度の傾斜を持ち、上部を垂直とする独特のスプーン・バウを採用した。これは当時、決戦海域に配備する予定だった秘密兵器・一号機雷を乗り切るための形状だった。 同年6月11日、日本海軍は建造予定の主力艦艇6隻(甲号戦艦〈安芸〉、乙号戦艦〈薩摩〉、子号装甲巡洋艦〈筑波〉、丑号装甲巡洋艦〈生駒〉、寅号装甲巡洋艦〈鞍馬〉、第一号装甲巡洋艦〈伊吹〉)の艦名を、それぞれ内定する[47]。, 筑波進水式は同年(明治38年)12月12日を予定し[48][49]、明治天皇皇太子(嘉仁親王、のちの大正天皇)が臨席することになった[50][51]。 爆沈時の筑波艦長有馬純位大佐は、事故から約2年後に病死した[103]。横須賀の馬門山海軍墓地には、筑波・河内(1918年7月12日爆沈)の慰霊碑が並んで建立されている[103]。, 「筑波艦進水式故障の為め失敗」報知新聞1905年12月15日『新聞集成明治編年史. 筑波(つくば)は、大日本帝国海軍の巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦)[26][5][27]。筑波型巡洋戦艦の1番艦である。 ショックカノンは、アニメ「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」に登場する架空の兵器[注 1][注 2]。, 西暦2199年建造の、宇宙戦艦ヤマトの主砲に採用されたことを皮切りに、地球防衛軍の戦闘艦艇の標準艦載砲となった火砲である。日本語表記は「衝撃砲」、あるいは「衝撃波砲」。敵艦を一撃で粉砕し得るほどの破壊力をもつ。その弾道に特徴があり、砲身から打ち出された衝撃波エネルギーが、螺旋を描くように絡み合いながら進んでいく[1][注 3]。発射方式はエネルギー伝導式[注 4]、後にエネルギーカートリッジ式[注 5]となる[2]。なお、波動カートリッジ弾使用時には装填シーンが描かれることが多い(『ヤマトよ永遠に』『宇宙戦艦ヤマト 完結編』)が、通常砲撃の際にはほとんど省略される(『宇宙戦艦ヤマトIII』第19話でのみ確認可)。, 弾道の色は『ヤマト』では緑、『さらば』では黄色、『ヤマト2』以降は水色で概ね統一されている。, なお、設定によるとヤマトの主砲の製造会社は南部重工業大公社であり、砲塔内には銘板も存在する[2]。, 石津嵐の小説版では、ヤマトの「主砲」はあくまで波動砲であり、甲板の砲塔はカリフォルニウム核弾頭を発射する副砲とされていて、まったく異なる兵器となっている。, 名称が「プラズマショックカノン」となっており、文字通りエネルギーがプラズマ化されている。地球連邦艦艇の主兵装で、18代YAMATOも装備している。, ビームの色は青みがかった白。地球連邦艦艇のショックカノンはセイレーン艦に対して若干威力不足な描写があるが、18代YAMATOのショックカノンは斉射でセイレーン艦数十隻を吹き飛ばすほどの威力になっている。, 砲塔の形状は薄い板のような形状になっており、個別で動く砲身はない。また、17代YAMATOの砲塔形状は『復活篇』以前の時代に似ているが、砲身が円柱状ではなく四角柱状となっており、内側にライフリングもない。, 地球艦艇の主兵装で、ヤマト以前の艦艇にも標準搭載されている[7]。当初は旧世代艦のショックカノンもガミラス艦に通用していたが、ガミラスは戦闘の度に学習して艦艇を強化していき、劇中序盤の火星会戦時には傷一つ付けられなくなっていた[7]。しかし、ヤマトに搭載されたものは波動エンジンの高出力により威力が大幅に上昇し[8]、ガミラス空母を数発で撃沈するほどになった。, ショックカノンのビームの色は、旧世代艦に搭載されていたものが黄色、ヤマトに搭載されていたものが白となっている。ヤマトのショックカノンは発射時に爆炎のようなものが噴出し、ビームは原作同様捻れて束になる。, なお、本作でのヤマトのショックカノンは主砲のみで、副砲はパルスカノンと呼ばれるものである[8]。, 『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク作品である『宇宙戦艦ヤマト2199』を初作とする本アニメシリーズでは、正式名称が「陽電子衝撃砲」になっている。ビームは波動エンジンからのエネルギー供給による陽電子ビームとなっており、波動エンジン停止中はほとんど撃てなくなる。ビームの色は水色で、旧作同様発射した後3本が螺旋状に束になる。ただし、目標との距離が近い場合は束になる前に命中することもある。, ガミラスの巡洋艦程度のスケールの艦なら一撃で撃沈する威力を持つが、『2199』第15話でドメラーズIII世を砲撃した際には堅牢な正面装甲に弾かれてしまっている。, 『ヤマトよ永遠に』『宇宙戦艦ヤマトIII』『宇宙戦艦ヤマト 完結編』に登場するオプション弾。主砲のカートリッジに波動砲の100分の1の威力分の波動エネルギーを充填している。, 『宇宙戦艦ヤマト2199』から始めるリメイクアニメシリーズ作品に登場する実体砲弾。通称「三式弾」。ヤマトの第一・第二主砲および第一副砲が、ショックカノンの代わりに発射可能[11][9]。製造は南部火工株式会社[注 6]。, 発射は燃焼薬莢方式であり[9]、エネルギーの大量供給は必要としないため、波動エンジン停止中などエネルギーを供給できない状況などでも発射可能。また、重力下での曲射弾道射撃を行う際や、通常ビーム兵器が無効化されてしまう空間での砲撃時など、ビーム兵器に比べて優位性に優れる状況下でも使用される。砲弾には時限信管をセットすることも可能であり、それにより時間差攻撃もできる。ただし、射程はショックカノンよりも短い。, 艦後部の第三主砲および第二副砲は直下に航空機格納庫が位置して給弾室を確保できないため、実体弾は発射不可[9][12][注 7]。ただし、第三主砲と第二副砲も空砲を撃つことは可能であり[12]、第21話の宇宙葬において第二副砲が弔砲を撃っている。, 名前は由来は大日本帝国海軍の対空砲弾「三式弾」で、語呂の良さから名付けられた[14]。劇中年代が「三」とは無縁な西暦2199年のため、時限信管の有無や炸薬の種類が異なる「一式弾」「二式弾」が存在していると理屈付けされている[15]。実在の「三式弾」は対空用の「榴散弾」の一種であるが、三式融合弾は「徹甲榴弾」に近い描写の対艦・対地用と「榴散弾」に近い描写の対空用の2種類があり[注 8]、劇中では主に対艦・対地用が使用されている。対空用は、小説版『2199』の七色星団海戦時に敵第二次攻撃隊の迎撃に使用されている[17]ほか、アニメでは『星巡る方舟』においてガトランティスの攻撃機を迎撃する際に使用され、「榴散弾」としての描写が描かれた。, ガミラス側は「砲弾」を撃ち出すような武装を使用しておらず、『2199』第25話における亜空間回廊内での戦闘でデウスーラII世が三式弾による攻撃を受けた際、同艦のオペレーターが「砲弾」による攻撃に驚愕しており、デスラーはそんな攻撃を行なうヤマト(の乗組員)を「野蛮人」と侮蔑している。また、むらかわみちおの漫画版でのメ2号作戦において反射衛星砲を攻撃する際、シュルツはヤマトが地平線の向こうにいるため、基地がヤマト側の射界に入っていないと考えていたが、三式弾による曲射弾道射撃によって反射衛星砲が破壊されたことを知り、「そんな原始的な兵器で!」と驚愕している[18]。, ショックカノンを特徴付けるものとして、その発射音がある。ヤマトの効果音はシリーズの重要要素の1つであり、ショックカノンの発射音は波動砲と並び代表的な音として取り上げられることがある[19][20]。, 第1作にはショックカノン以外に、第2話において戦艦大和の主砲発射シーンがある。ショックカノンの音はそのシーンでの音との対比で考えられており、効果音を担当した柏原満はヤマトが大和の改造という設定を踏まえ、大和とは異なりつつも似ている音を心掛けたという[20]。最初の音はどちらもほぼ同じだが、ショックカノンはその後宇宙空間を切り裂いていくというイメージの音を加えている[20]。大和の主砲発射音は、『2199』では三式弾の発射音として使用され、ショックカノンとで使い分けがなされている。, 劇中では省略され、一直線に進んでいくこともある。また、ヤマト以外の地球艦では螺旋状の弾道は見られない。, 小説版『2202』では、給弾機構の設置が見送られただけで糾弾室自体は当初から備わっており、第一次改装時に後部砲塔も実体弾を発射できるよう改修されたと語られている, 「大銀河科学技術講座 Sheet06 3連装衝撃砲(ショックカノン)」『宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第3号p. 11月16日、帰国した[63]。 ワシントン海軍軍縮条約で日本戦艦の保有数が対米英比6割に抑えられたため、日本海軍は46cm砲搭載戦艦を建造し、質的対抗を図った。この46cm砲はそれまで最大の戦艦主砲だった41cm砲を凌駕する、世界最大の主砲であった。しかし、機密保持のため「九四式四〇センチ(サンチ)砲」と呼称した。アメリカ側も、戦中は日本には46cm砲を作る技術はなく最大でも長門型と同等の40cm砲であろうと推測しており、詳しい口径を … なお児童文学作家の佐藤さとるが、編集顧問(最高代表)をつとめる同人「鬼ヶ島通信」で連載した、海軍士官だった父の人物伝『佐藤完一の伝記 海の志願兵』の同誌50+5号掲載分で(連載終了後、書き下ろしを加えて偕成社から発売)父の日記が引用されており、「自分(父)と同期の二人の目前で筑波が突如爆発し、絶句した」と記されている。, 1月16日に日本海軍は砲術学校長加藤寛治少将を委員長とする査問会を組織し、楠瀬熊治造兵総監や平賀譲造船中監も委員を務めた[89][90]。調査の結果、爆発が火薬の自然発火や艤装上の要因によるものである可能性は否定され、人為的に引き起こされたものであるとの結論が出された[91]。嫌疑者として最も有力とされたのは行方不明となっていた水雷科要具庫員の二等水兵であった[92]。この人物は爆発発生当日に窃盗を疑われて詰問されていたことから自暴自棄になった末の犯行であると推測されたが、真相は不明である[92]。, 合同葬儀は1月21日に行われた[93][94]。 長門型は、米海軍が今後戦艦主砲に16インチ砲(40.6センチ砲)を採用することを予測して、16インチ級艦砲を搭載することになった 。 まず第一次世界大戦前の1914年(大正3年)6月2日、日本海軍は16インチ級砲の試作を公式に命じた 。 この砲は、すでに前年から開発がはじまっていたという 。 1912年(明治45年)5月18日に進水 。同日附で「伊号装甲巡洋艦」は正式に金剛と命名された 。 筑波型の艦体・機関や防御力は装甲巡洋艦であるが、主砲は、当時の主力戦艦と同じ12インチ砲を搭載した[33][44]。日露戦争における装甲巡洋艦の運用経験から、攻撃力と速力を優先したための措置である[45]。, 1904年(明治37年)6月23日製造訓令[4]、呉海軍工廠は、筑波型2隻(筑波、生駒)を同時に建造することになった[40][46]。 当初、伊勢型の改良型として14インチ50口径砲12門(連装砲塔6基)を搭載予定だった長門型は、16インチ級砲搭載型戦艦として、設計を大幅に改めることになる[3]。この時、イギリスはクイーン・エリザベス級戦艦(ウォースパイト)[19]の設計図を日本側に提供した[3]。日本側は多くの改正を加え、最終的に常備排水量3万2500トン、16インチ級砲8門、機関出力6万軸馬力で速力25ノットの高速戦艦案がまとまる[3]。, 「長門」は八四艦隊案大正五年度計画により、「陸奥」は大正六年度計画により加賀型戦艦や天城型巡洋戦艦と共に建造が承認された[20]。当初の予定では、16インチ級搭載戦艦1番艦(長門)は大正5年起工、大正8年竣工を予定していた[21]。 5。, 『「宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2199製作委員会(発行)、, 『「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第二章 発進篇」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2202製作委員会(発行)、バンダイビジュアル(販売)、2017年6月、p. 26-27。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ショックカノン&oldid=78749118. 綾波(あやなみ)は大日本帝国海軍の駆逐艦 。 特型駆逐艦(吹雪型)の11番艦。艦名は重なりあって寄せる波から由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては神風型駆逐艦 (初代)「綾波」に続き2代目にあたる。.

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